第462回 「あの頃、君を追いかけた」
地元台湾では記録的なヒットとなり、お隣の香港でも中国語映画の興行記録をあっさり塗り替えた話題の青春映画がいよいよ日本公開される。
筆者は台湾公開時の一昨年10月初めに現地で観賞、その後東京国際映画祭でも見ているので、今回の試写会と合わせ3回見たことになる。浮かび上がるのは、若かった“あの頃”への愛惜の念と、その裏返しである現状への若干の満たされぬ思いや、とりあえずの肯定感だ。ヒットの理由は、誰しもが持つ、こんな心情への共感であろう。
作品は人気作家でもある九把刀(ギデンズ)監督の自伝的小説を映画化したもので、初監督作品にかける思いは、一昨年の共同会見を取材しているので、本コラムの第370回「“お馬鹿”な男の子の青春映画」をご覧いただきたい。
1990年代、台湾中西部の彰化(しょうか)の高校生、コートン(クー・チェンドン)は仲間4人と馬鹿なことばかりして青春を謳歌していた。ある日、授業中のいたずらが過ぎて、コートンはクラスの優等生で仲間全員が熱をあげているシェン(ミシェル・チェン)のすぐ前に座るよう教師に命じられる。見張り役の彼女と監視される彼との甘くぎこちない関係は徐々に進展を見せていくが……。
この作品もそうだが、最近のアジア映画で顕著に見られるのは、現代の視点から過去の学生生活を振り返るという内容のヒット作が相次いでいることだ。最近ではインドの「きっと、うまくいく」がそうだし、韓国では「サニー 永遠の仲間たち」や「建築学概論」が当てはまる。そして必ず現代から始まって過去にさかのぼり、最後はまた現代に戻るという構造も共通している。
ちなみにインドの「バルフィ!」も現代から過去を振り返るという構造は同じながら、過去からさらにその昔へと飛ぶなど時代の振幅が激しいことや、学生生活は思い出すべき過去としては描かれていないなど、上記3作品とはやや趣を異にしている。
それにしてもなぜ過去を振り返る作品が作られ、またそれが支持されるのだろうか。監督は一昨年10月の来日会見で「台湾で映画を撮る環境は今でも非常に厳しいものがあって、まず映画を撮れることが貴重なんです。だからどの監督もその機会を逃さずに自分の物語を語ろうとするのでしょう」と語っている。製作の動機としては十分に考えられる話である。ではそのような作品が観客から強く支持される理由は?
一つは、青春の真っ只中にあって、好きなことだけを考え、やっていればいい時代、時間は無限にあると思われた。まるでいたずらばかりしているコートンのように。それが大人になった現在から振り返ると、ニ度と戻らないキラキラと輝く思い出の1コマに押し込められている。そのずれが大きければ大きいほど、喪失感は強まり、そんな作品が人々の琴線に触れるのだろう。
もう一つは時代の閉塞感だ。中国語圏の現代文学を専門にしている東大の藤井省三教授は、東アジアにおける村上春樹の受容を共同研究している。村上春樹ブームは台湾から香港、上海、北京へと時計回りに広がっており、それは各国・地域の経済成長が一段落するのと軌を一にしているという。この経済成長鈍化と春樹ブームの関係を、映画制作や観客の嗜好との関係に移し替えて見ることは乱暴だろうか。時代の行き詰まり感が、まだ明るい未来を夢見ることができた輝かしい時代を振り返る作品を求めているのだと。
日本のこの20年は成長の一段落というより明らかに停滞だ。世界経済をけん引してきた中国にも陰りが見えている。現在から過去を振り返る作品は、アジア全体にさらに広がるかもしれない。
最後に、日頃はアジア映画に目が向かない人たちへのメッセージ。この作品には「SLAM DUNK」や飯島愛など日本の漫画やAVも出て来る。日本のサブカルチャーがほぼ同時にアジアの若者に受け入れられていたことを良く示している。文化が国境をふらりと越えて行くことを、越境性の高さを自認する映画自体がさらに後押しするかのように見せていく。映画のもう一つの魅力である。
「あの頃、君を追いかけた」は9月14日より新宿武蔵野館ほか全国順次公開【紀平重成】
【関連リンク】
「あの頃、君を追いかけた」の公式サイト
http://www.u-picc.com/anokoro/
銀幕閑話:第370回 “お馬鹿”な男の子の青春映画
http://mainichi.jp/feature/news/20111028org00m200024000c.html