第471回 もうひとりの息子

「もうひとりの息子」の一場面。オリット(エマニュエル・ドゥヴォス=左)はライラ(アリーン・ウマリ)の手をとって痛みを分かち合う(C)Rapsodie Production/ Cité Films/ France 3 Cinéma/ Madeleine Films/ SoLo Films (以下同じ)
このタイミングでの公開に、オーバーに言えば運命的なものを感じる。昨年の東京国際映画祭でグランプリと監督賞をダブル受賞。それから1年後の同映画祭開催中の公開(東京地区)だ。しかもカンヌ国際映画祭審査員賞に輝いた「そして父になる」と同様に赤ちゃん取り違え事件を描いており、家族や血のつながりとは何かを問う問題作である。母の強さ、未来へのかすかな希望といったものを感じることができる。

テルアビブのアロンの家にヤシン(マハディ・ザハビ=右)の家族がやってくる
舞台はイスラエルのテルアビブとヨルダン川西岸地区のパレスチナ人居住地。イスラエル国防軍大佐アロンの息子ヨセフが18歳になったのを機に兵役検査を受けた。母親のオリットが血液検査の結果に疑問を持ったことから、18年前のイラク戦争時に地中海に臨むハイファの病院で自分と別の母親の赤ちゃんが取り違えられていたことを知る。
辛い告知である。18年間愛情を注いできた我が子が実は他人の子だったという事実。しかも取り違えの相手が敵対しているパレスチナ人夫婦だったというのだから。

ヨセフ(ジュール・シトリュク=左)とヤシンは少しずつ打ち解ける
ハイファの病院でそれを告げられながら、それでも母親同士は相手が持参した“我が子”の写真に目を向け感情の高ぶりを抑えられない。そして思わず感謝といたわりがないまぜになったように互いの手をしっかり取りあうのである。
現実を受け入れていく妻たちに比べ、夫はどちらも耐えられないと部屋を飛び出す。やがてテルアビブのアロンの家で、両家の家族が顔合わせを行うことになる。緊張の中にも小さな妹同士はすぐ打ち解け、庭に出て二人だけになったヨセフともうひとりの息子ヤシンは若者らしい感覚で話をしていく。「知ったとき、どんな気分だった?」「君と同じさ、多分」「パレスチナ人だったと知って憎しみを感じた?」「全然、感じない」「君は?」「パリに住んでいるから」

母親オリットの息子への愛情は変わらない
女性のロレーヌ・レヴィ監督は赤ちゃんの取り違えというそれだけでドラマになる題材に、敵対するイスラエル人とパレスチナ人同士の組み合わせという脚本にとりつかれた。ただし政治的な映画にはしたくなかったという監督は徹底してリアリティにこだわり、撮影中もイスラエル人やパレスチナ人スタッフの意見を取り入れて作品を磨き上げていった。

母親ライラも同様に息子を愛している
その結果は、育てた息子はそのまま息子であり続け、一方自分たちの人生にはもうひとりの息子がいるのだと認め合い、そのためには互いに手を携えていくことを二人の母は理解していくという展開である。大きな代償を払った両家の人々にとっては、痛手を補って余りある幸せを享受する資格があるのだということだろう。
妻たちの力によって、やがて夫たちも、この選択肢しかないと考えていく。一方、息子たちはどんどん交流を深めていく。この筋書きはイスラエルとパレスチナが継続的に血を流しあう現実と比べ、楽観的すぎるという声もあるだろう。しかしロレーヌ・レヴィ監督は、あえて脚本の原案にあった爆撃シーンで終わる結末を避け、少年たちの手に託すべきだと考えた。
「もうひとりの息子」というタイトルは親の眼差しを感じさせる。つまりは母の物語という意味合いが強い。しかし息子の眼差しでこのタイトルの意味を考えると、当初は理不尽な形で受け入れざるを得なかった自分の人生に、もうひとりの人生を体験することで相手の立場にも理解を示すことができるという二つの人生を同時に歩むことに他ならない。こう見れば本作は母の物語でもあるし、実は新しい世代の物語なのだということがよくわかる。
若い二人はイスラエルとパレスチナの対立という厳しい現実を見すえながらも、将来の共存をなお期待しようという監督の思いを託されたメッセンジャーと言えるだろう。
「もうひとりの息子 」は10月19日よりシネスイッチ銀座ほか全国順次公開【紀平重成】
【関連リンク】
「もうひとりの息子 」の公式サイト
http://www.moviola.jp/son/