第503回 「へウォンの恋愛日記」
男女の軽妙な会話によるコミカルな恋愛劇と、そんな俳優を見つめる監督の眼差しの優しさから出演希望者が後を絶たないホン・サンス監督。昨年韓国で公開された最新作2本のうち、本作にもイギリス出身の女優で歌手のジェーン・バーキンがカメオ出演。彼女は自身のコンサート前日、ふらりとソウルのロケ現場に現れ、挨拶もそこそこに台本を30分で覚え、撮影し、スタッフたちとしっかり記念撮影までして帰ったという。ジェーン・バーキン本人はもちろん、監督やスタッフにとっても夢のような時間。実はこの作品自体も夢がテーマなのである。
映画監督で教授のソンジュン(イ・ソンギュン)と付き合っている大学生ヘウォン(チョン・ウンチェ)は彼との秘密の関係を終わらせなければいけないと考えていた。ある日、母親がカナダに移住するというので5年ぶりにレストランで母と会い、「母さんは、どこで何をしていようと私の母さんよ。私は必ず母さんのこと責任持つから」と告げる。そんな娘に「大人になったわね」と母親が声を掛ける。
ところが、へウォンはその別れのつらさに落ち込み、「今日だけ一緒にいて。私、寂しいの」とソンジュンに連絡を取ってしまう。そのデート中、大学の同級生と鉢合わせしてしまい、飲み屋で二人の関係を質問されて……。力強い意志を示すかと思うとナイーブな面をさらけ出す若い女性の不安定な心模様を監督は絶妙の距離感で描いていく。
ジェーン・バーキンが本人役で出てくるのは、冒頭の母親と会うためにやってきた店でへウォンが日記を書いているうちにうとうとして見る夢の中でのこと。
店の外でジェーン・バーキンに道を尋ねられた彼女は、娘のシャルロット・ゲンズブールに似ていると言われ舞い上がる。そして「彼女みたいになれるなら魂を売ってもいいわ」と言ってしまうのだ。夢の中でのセリフだが、ヘウォン役のチョン・ウンチェは実はシャルロット・ゲンズブールの大ファン。その母親と共演し、似ていると言われる設定なのだから、彼女にとっては夢のようなシーンということになる。このセリフ、チョン・ウンチェの本心を監督が取り入れたのかもしれない。
監督の作品には驚くような人が出てくる。今作でも期待に違わず出てきたのはアメリカの大学で教授をしているという男に誘われ、同じレストランでお茶を飲む。男は「あなたのような人と結婚したい」と言い出すかと思うと、マーティン・スコセッシ監督と親しげに電話で話し、さらに何やら呪文を掛け予告通り灰色のタクシーを呼び寄せる。これも夢の中のことなのか、へウォンが実際に見ているのか判然としない。
厳しい現実と夢の狭間で流されていく現代人。監督はせめて夢を見ていこうよとメッセージを送っているようにも見える。
愛しているのか、あるいは愛はもう終わったのか不確かなへウォンとソンジュンのつかず離れずの関係は続く。ソンジュンが言う。「なぜおれたちは愛し合えない? 君はなぜ愛を壊すんだ?」。へウォンがこう答える。「もう少し待てば、すべてが楽になるわ」
この夢、いつかは終わるのだろうか。
同じセリフやシーンを反復させることで、独特のリズムとユーモアを醸し出しているホン・サンス監督だが、今作では「ハハハ」に出ていたユ・ジュンサンとイェ・ジウォンというホン監督作品で常連の男女が、同じ役名で再登場し、その後の変わらない関係を示すというファンが思わず喜びそうな場面がある。
ファンを楽しませようという遊び心は作品を作るごとに高まっているように見えるが、本当は監督が一番楽しんでいるのだろう。
次回作の加瀬亮主演「自由が丘8丁目」の完成が待たれる。
「へウォンの恋愛日記」は「ソニはご機嫌ななめ」と8月16日よりシネマート新宿で同時公開。【紀平重成】
【関連リンク】
「へウォンの恋愛日記」の公式サイト
http://www.bitters.co.jp/h_s/
「ソニはご機嫌ななめ」を紹介する毎日新聞愛読者サイト「まいまいクラブ」の筆者映画コラム「キネマ随想」
https://my-mai.mainichi.co.jp/mymai/modules/kinemazuiso81/details.php?blog_id=21