第552回「ソ満国境 15歳の夏」

「ソ満国境 15歳の夏」の一場面 (C)「ソ満国境 15歳の夏」製作委員会
あなたは15歳の夏に何をしていましたか? この作品は1945年、旧満州(今の中国東北部)で関東軍に置き去りにされた15歳の少年120人と、2011年の福島原発事故で避難生活を送る同じ中学3年生5人が、形は違うものの避難体験と平和の意味を考え交流する姿を描く。

石岩鎮の長老の金さんはなぜ日本語がうまいのか(田中泯)(C)「ソ満国境 15歳の夏」製作委員会
原作は逃避行の末、日本に引き揚げた中学生の生き残りの1人、田原和夫さんの「ソ満国境 15歳の夏」(築地書館)。この史実を基に、福島県の中学3年生の放送部員5人が中国ロケを通じて、田原さんたちの過酷な体験の跡をたどっていく姿を追い、戦争は市民も巻き込む暴力であることを語り継ごうとするドラマだ。

被災地で除染作業のボランティアをする人たち。中央は原作者役を演じる夏八木勲さん (C)「ソ満国境 15歳の夏」製作委員会
田原さんの著書によると、1945年5月、当時の満州国首都、新京(現在の長春)の中学3年生120人は勤労動員としてソ連(現在のロシア)と満洲の国境付近の東寧報国農場に派遣される。終戦直前の45年8月9日、ソ連軍が国境を越えて侵攻し、少年たちは逃避行を余儀なくされる。最寄りの駅を目指すが避難列車は出た後で、国境を守るべき関東軍の姿はなかった。少年たちは国境守備部隊の後退を隠すために送り込まれていたということが後で分かる。軍隊は国民を救出するどころか、組織温存のための“捨て駒”にしたのだ。
少年たちは満洲の山中を300km逃げ回った後、東京城でソ連軍の捕虜となる。1日2食のお粥だけという劣悪な待遇の中、餓死寸前となる収容者も現れる。捕虜となって約50日たった10月12日、突然解放された。歩けなくなった数人を残し牡丹江に向かう。その途中の石頭村(現在の石岩鎮)で中国人の農民に助けられ、約40戸に分宿し食事も分けてもらった。

中学生に同行する先生が原作の本を読み聞かせる (C)「ソ満国境 15歳の夏」製作委員会
温かいオンドルに寝て元気を取り戻した少年たちは翌朝、農民に感謝の思いを告げ、歩き出す。牡丹江でようやく難民列車に乗ることができ、ハルビン経由で新京に戻った。収容所に残った級友のうち4人は戻ることができなかったという。
松島哲也監督はこの中学生たちが体験したことに感銘し、ぜひとも映画にしたいと思ったが、脚本作りに悩んでいた。そこに2011年、東日本大震災が起き、原発事故で長期の避難生活を強いられている家族の姿を見て、「間違いが起こると、はじめに犠牲になるのは子供たち」と思い、いまは85歳になった当時の15歳から今の15歳に戦争体験を語り継いでもらおうと考え、一気に脚本を完成させたという。

雄大な黒龍江省で放送部員たちの撮影が進む (C)「ソ満国境 15歳の夏」製作委員会
映画は津波で放送機材が流され、中学最後の夏に放送部の作品作りができないことを悔しがっていた5人の部員たちに思わぬ話が持ち込まれる。中国の黒竜江省にある現在の石岩鎮からカメラが寄贈され、これを使って村を取材してほしいという依頼の手紙付きで。鬱々としていた彼らにとって、その招待を断わる理由はなかった。
現地では金さんという長老が歓迎の晩さん会を開いてくれた。招いてくれた理由は? 何を撮ってほしいのか? なぜ彼は日本語が上手なのか? 聞きたいことは一杯あったが、翌日から、満州の奥深くの平原に置き去りにされ逃避行を続けた少年たちの歩いた後を撮影し始める。そして旅の最後に、驚くべき事実が明かされるのである。
ミステリーというほどではないが、謎解きの味付けも施しつつ、監督は日本人の少年たちを助けた中国の農民の心を伝えて行こうとする。監督本人が日中間に緊張が走ってロケを中止するなど苦労しているので、なおさら友好の大切さが身に染みていることだろう。資金難も含め数々の困難を乗り越えて、作品に一本筋の通った力強さがある。
一昨年亡くなった夏八木勳さんが原作者役で出ていて、彼の遺作となった。
ところで、私が15歳の時は日本が高度経済成長の波に乗り、すべてが右肩上がりの時代という1963年。戦争の影など全く見当たらない平和の中にいた。その後も半世紀にわたり戦火を交えることがなかったのは、世界を見渡しても幸運と言っていいだろう。なぜそれが可能だったのかを振り返りつつ、願わくば他の国にもこの平和をおすそ分けしたい。
「ソ満国境 15歳の夏」は8月1日より新宿K’s cinemaほか全国順次公開【紀平重成】
【関連リンク】
「ソ満国境 15歳の夏」の公式サイト
http://15歳の夏.com