第618回 「クーリンチェ少年殺人事件」
これほど熱烈なファンから再公開を待たれ、しかも初めてではなくても随所に新発見があり、期待以上の感動を得られる作品があったろうか。3時間56分のノーカット版。長さを全く感じさせず、無駄なところが一つもない。光と闇の中に浮かび上がる1960年代初頭の台湾が愛おしくすら感じられる。
エドワード・ヤン監督は、61年夏に同世代の14歳少年が女友達を殺害した事件に衝撃を受ける。本作はそれを題材に30年の時を経て手がけた青春群像劇だ。
舞台は60年代初頭の台北。建国中学夜間部に通うシャオスー(チャン・チェン)は不良グループに属する仲間とつるむ毎日だった。 そんなある日、怪我をした少女シャオミン(リサ・ヤン)と保健室で知り合う。彼女は不良グループのボス、ハニーの女で、彼女をめぐってハニーは対立するグループのボスを殺し台南に姿を隠していた。シャオスーはシャオミンに淡い恋心を抱くが、ハニーが戻ってきたことでグループ同士の対立が激化し、シャオスーとシャオミンも巻き込まれていく。
監督の非凡なところは、事件の背景として、共産党との内戦に敗れはしたものの、いつか大陸に帰りたいと願う少年の親世代の焦燥感を巧みに取り込みながら、その一方でエルビス・プレスリーやジェームス・ディーンといったアメリカンカルチャーにあこがれる若い世代の登場をヴィヴィッドに捉えるなど、沈滞と躍動が混在する当時の台湾の政治、社会、文化的状況を見事に浮き彫りにしていくところだろう。
この作品の魅力は、時代の空気をリアルに描くだけでなく、登場する人物に寄り添い、彼らの言動に一つ一つ説得力を持たせていくあたり。しかもカメラアングルが自在で観客をグイグイと劇中に引き込んでいくのだ。
光と闇の使い方も夢を見ているかのように美しい。内部抗争で一方のグループが相手の館へ討ち入りするシーンもそうだった。雨が降りしきる夜。大きく開け放たれた玄関に輪タクがゆっくり到着する。1台、2台、そして3台。幌を上げると日本刀を持った男たちがぞろぞろ降りて来る。台風の雨音で車や人の気配が屋内の人たちには伝わらないのだ。
その直後の大立ち回り。大声はするが、見えるのは一瞬。光が点滅するたびに刀が光り、人が倒れる。まるで漫画のコマが動き出しアニメーションになっていくように。こう書いて、ハッとした。ヤン監督が愛好していた手塚治虫の漫画から監督の未完の遺作となったアニメ「追風」へとつながる長い長い創作の道の一過程が本作だったのではないかと。そう思えば、登場人物とは常に一定の距離を保つものの、見つめる目線はどこか温かく、スタイリッシュに見せて行くヤン監督の手法には「コマ割りアニメーション」とでもいう一面もあったのではないだろうか。映画冒頭、涼しげな並木道を2台の自転車がスクリーンを見つめる観客に向かってゆっくり近づいてくる印象的なシーンも、その範ちゅうに入りそうだ。
国民党政府の要人にあてがわれた日本家屋など静ひつさが際立つ空間も印象的だが、さらにすばらしかったのが、ハニーの死に動揺するシャオミンにシャオスーが「怖がらなくていい。僕は一生離れない君の友達だ。守ってあげる」と叫ぶ場面だ。「誰もいらない、当てにならない」とシャオミン。ブラスバンドの演奏が鳴り響く中で、その轟音にかき消されまいと大声を張り上げるから、突然演奏が止まった時に余計耳に響き渡る。なんと美しい愛の告白シーンだろう、そして切ない返答だろう。
この作品は青春映画としても出色の出来だが、家族ドラマとしても見応えがある。内戦に敗れ上海から逃げてきた公務員の父を持つ外省人の7人家族の信頼関係がゆっくりと崩れて行く。その推進役となったのは、小さな腕時計だ。その時計は母にとって祖母から伝わる大事な思い出の品。その思い出は懐かしい出身地の上海につながる。シャオスーの兄がビリヤードの賭けに負けた時に時計は質草になる。姉の機転でいったんは戻るが、今度はシャオスーが持ち出す。犯人と間違われた兄が父から激しくたたかれ、弟は自分を責める。精神的動揺が癒えないままラストに向かっていく。
共産党とのつながりを疑われ、厳しい尋問で精神状態が不安定となる父に、もはや上海で享受した知的生活を取り戻すことは望めない。一個の腕時計の喪失と家族の崩壊が時を同じくして進んでいく。そういえば遺作となった「ヤンヤン 夏の想い出」も個人と家族のバランスが崩れていく作品だった。監督の主題が変わっていないことに気づかされる。
本作品は91年の東京国際映画祭で審査員特別賞を受賞し、翌92年に日本公開された。上映時間が3時間8分のバージョンと3時間56分の2つのバージョンがあり、2016年の東京国際映画祭ワールドフォーカス部門にて、デジタルリマスターされた今回のバージョンがプレミア上映されている。
いまやアジアを代表する名優の一人であるチャン・チェンの初々しい表情と肉声、そして素人とは思えない自然な演技は必見だ。
「クーリンチェ少年殺人事件」は3月11日から角川シネマ有楽町、同18日から新宿武蔵
野館ほか全国順次公開【紀平重成】
【関連リンク】
「クーリンチェ少年殺人事件」の公式ページ
http://www.bitters.co.jp/abrightersummerday/