第671回 「軍中楽園」のニウ・チェンザー監督に聞く
まるで台湾から中国大陸に打ち込まれたくさびのように、本土からわずか2キロ余りの海上に浮かぶ金門島。要塞化したこの島をめぐり中国と台湾がにらみ合う時代が長く続いた。運命に翻弄されながらも、この地で懸命に生きる男女を描いたニウ・チェンザー監督に聞いた。
「モンガに散る」以来8年ぶりに来日した同監督に「前回もお会いしましたね」と話しかけると、「東京に来るたびにあなたにお会いしますね」と当意即妙の応対。全身黒で統一し、相変わらずの格好よさ。一瞬「風櫃の少年」(ホウ・シャオシェン監督)に出演した少年時代の姿が頭をよぎる。
1969年、砲弾が常時降り注ぎ、まさに攻防最前線の島に配属された青年兵ルオ・バオタイ(イーサン・ルアン)はまったく泳げないことが幸いし、「特約茶屋」と呼ばれる軍人向けの娼館を管理する部隊に転属される。そこには事情を抱えて働く女や、その一人と除隊後に暮らすことを夢見る大陸出身の老兵らがいた。
−−映画の中で餃子を作ってくれた父や母を懐かしむ老兵が出てきますが、実話でしょうか。
「実話です。私の父も母方の祖父も中国の北方出身で、大晦日の年が変わる時間になると餃子を食べました。その中に一つだけコインを入れ、それが当たった人は翌年財運が舞い込んでくるという言い伝えがあるので、毎年つくりました。映画の中の餃子は、幸福な思い出、郷愁、美しい記憶を喚起してくれる象徴として入れました」
−−でもその美しい、幸せの象徴の餃子づくりが映画の中では悲しいシーンとして取り上げられていました。それはなぜでしょうか。
「故郷に対する郷愁は美しいものだけではありません。今の悲しい状況と対比させたかった。私の父は北京出身の兵士として(共産党との内戦に敗れて)台湾にやってきたのですが、よく家で料理を作りました。そんな時、父親はすごく興奮しているんです。大人になって分かったのは、父親があんなに興奮していたのは、家に帰りたいけど、大陸には帰れないという悲しみを抱いていたのと、故郷の料理を再現することによって、母親を思い出して偲ぶという気持ちもあったんだろうと思います」
−−映画の中でも「母さん、あんたに会いたいよ」と言ってましたね。これも泣かせる話ですよね。
「そうです」
−−それから、戦争を憎む思いも映画からは感じられました。例えば空襲の被害とか、直
接戦争にはつながりませんが、拉致された日本人の被害者とか、場所や状況は違っても普遍的に平和の大切さを訴えているお話だと思いました。
「そのとおりです。我々は国や種族といった概念の中で生きています。政治の派閥や財閥といった組織に絡めとられ、いわば不条理の中で生きています。そこには階級があったり、そのために軽蔑され制限されることもあります。何千年もこういう制度でやってきたのに、状況はいい方に変わっていますか? いまは民主主義の制度の中で生きている。一人ひとりは一票を投ずる権利も与えられているけれども、私が思うには、昔の農民が兵士に対してペコペコするのと同じように、依然として状況は変わっていないと思います」
「多くの国は大金を国民から吸い上げて武器を買い、周りの国を威嚇しています。国民は一生懸命仕事をして、家に帰るときには辛いお酒を飲み、また家に帰ったら本当に幸せかと言えば、実際は夫婦仲が悪かったりする。不条理だらけじゃありませんか? 会社のお偉いさんにかしずいて、生活のために残業して、なお仕事をしなさいと言われる。それが正しい生き方だよと、そういう教育を受けて成長し、それに従って毎日生活をしている」
「そして、これは中国との話になってしまいますが、政府は中国は怖いよ、だから武器を整備しなければいけないので、どんどん税金を払ってもらい武器を買う必要があるし、軍隊を訓練する必要があると言います。でも私は思うのですが、我々は政治を変える力なんてない。むしろわれわれは命の大切さに気づくべきだと思います。制裁したり、される側になるのではなく、周りを尊重し、世界を尊重し、そして意味のある人生を送るべきだと思います」
−−では娼館を舞台にしたのは、そういう現実世界をうまく表現できると思ったからですか?
「いえ、当初映画を作るときは娼館を管理する部隊のことは知りませんでした。私がこれを作りたいと言って、この題材を選んだわけではなくて、この題材・このテーマ・この娼館が私を選んでくれたんだと今になって思います。いくつかの偶然が重なってこの映画を作ることになったんです」
「もともとは他の題材に魅力を感じていたんです。でもある理由からこれを撮らざるを得なくなった。じゃあ撮ろうとなって、この過去の歴史に驚きました。私もいろんな不条理さに絡まれながら、方向を変えながら進み始めたわけです。そして少しずつ気づき始めました。なるほど、私は選ばれたんだな、この作品を作らなければならない人間としてという風に。この映画を観て何か感じた方々には、私もみなさんと一緒だということをお伝えしたい。この作品を通して私自身の考え方もどんどんとまとまってきました」
−−この体験は前作(「LOVE」)のときとは全然違うわけですか。
「はい」
−−そこがおもしろいですね。
「前回の作品は愛情について描写する作品でしたので、とても楽でした」
−−(笑)じゃあしばらくお疲れでしょうし、次回作は時間がかかりそうですね。
「前回はとにかく何でも予定どおりに全てが進んだということですね。今回の映画については私から見ると、これは神様から与えられたテーマ、プレゼントでした。そのことに、取り組む中で気づくことができました。そして作品は、ますます誠実に、謙虚に、優しくなっていったのです。ですから、全ての苦難には意味があるということです」
−−すると脚本はどんどん変わっていったと。
「そうです。もしこの先似たようなジャンル、似たような内容の映画を作ろうとしても、もちろん興行成績の目標は立てると思いますが、やはりその過程においても変化は起きると思います。映画づくりの場は工場ではないんです。本当に自分が感じたことを周りに伝えたい。誠心誠意をもって伝えたい。涙あり、笑いあり、という映画経験からそういうものを作りたいと思います」
−−「ホウ・シャオシェン監督に感謝を」という小さな文がエンドロールに出ました。それはどういうきっかけで入れたんでしょうか。
「『軍中楽園』は、われわれよりも上の世代の人たちの過去の話です。私は今年ちょうど50歳を迎えました。私は生まれ変わったのです。17歳のときにホウ・シャオシェンに出会い、彼の手によって私はこの世界で売れるようになりました。私は彼を愛し尊敬していましたが、一方で彼を憎んだこともあります。彼は私を持ち上げておいて、私の人気が出てからは私のことを全然相手にしなくなりました。それは一方的な私の感じ方です。とにかく私は彼に認められたかった。実は私が作った作品は必ず彼に観てもらっていました。そうしたら彼は「うーん」。こんな反応です(笑)」
−−目に浮かびますね(笑)
「けれども、『軍中楽園』は難しい問題も出てきました。一時期は私に対するバッシングがありました。なぜかというと、私は大陸と台湾のとてもセンシティブなところの線を踏んでしまったからです。ある日私は記者がホウ・シャオシェンに取材しているのを見ました。『今回の出来事をどう思いますか』と。彼は『あいつは自分でやらかしたんだからしょうがないよ』と私を責めていました。またメディアは他の監督にも取材をしていました。その監督は『結局誰もがいい映画を作りたいだけなんだよ』と言ってました。私はホウ・シャオシェンにメッセージを書きました。『私はあなたを一番必要としているのに、なんでそんなに冷たい言葉を言うんですか』と。そう書いたけれども削除しました。そして後者の監督には感謝のメールを送りました」
「私はまたあることに気づきました。ホウ・シャオシェンは厳しい父親のような存在なんだと。自分の子どもを褒めたりしないんです。彼は私に対してはいつも厳しいことを言うけれども、カメラマンや、俳優のイーサン・ルアンなど周りの人から聞くのは『彼はいつも君のことを心配しているよ』という言葉なんです」
「今回、編集のときに監督に来てもらいました。観終わると『半分手伝うよ』と言ってくれました。彼は自分の『黒衣の刺客』の編集に取り掛かっていましたが、『先に君の作品をやる』と言ってくれました。そして編集しながら『私ならこうするよ』と。彼の後ろ姿を見ながら、彼は私を愛してくれているんだと自分に言い聞かせました」
「今でも私は、ホウ・シャオシェンが座っているときは立っているし、彼がタバコをつけようとすると火をつけ、彼が離れようとすると鞄を差し上げます。そういう存在ではあるけれども、以前ほど彼のことを怖がらくなりました。私はある意味では彼に育てられ、そして今は自分の旅路を、自分の人生を自分で歩き始めました」
−−そういう解釈でいいんじゃないかと思いますね。ありがとうございました。写真を撮らせて下さい。
「軍中楽園」は5月26日よりユーロスペースほか全国順次公開【紀平重成】
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「軍中楽園」の公式サイト