第691回「『トレイシー』と『冷たい汗』から浮かぶもの」
今年の東京国際映画祭では香港映画「トレイシー」とイラン映画「冷たい汗」が印象深かった。この2作品には共通点がある。多数派による少数派への抑圧、あるいは少数派の生きづらさを理解しようともしない多数派の鈍感さといったものが見事に描かれているのだ。
「トレイシー」はアクション映画の名バイプレイヤー、フィリップ・キョンが彼のコワモテのイメージとは異なるトランスジェンダーの役を演じ、LGBT問題を真正面から描いたジュン・リー監督の長編デビュー作。
メガネ店を営むダイホンは、ある日高校時代の親友のチェンが亡くなったという電話を受ける。連絡してきたのは、チェンの同性婚の相手というボンド。遺灰を抱えイギリスから香港にやって来た彼と会ったダイホンは、長年妻にも子供たちにも隠してきた感情がよみがえる。彼もまたチェンを愛していたのだ。
上映後のQ&Aで主演のフィリップ・キョンが紹介してくれた彼がオファーを受けた時の話が面白い。彼の所属する事務所の社長は香港のトップ俳優ルイス・クー。本作の制作会社「天下一電影」の代表でもある彼から打診を受け、断る選択肢もなく?かどうかは不明だが、スンナリ決まったようだ。監督によるとフィリップ・キョンは優しく温かい面を持っていて、そこを引き出せば今回のダイホンははまり役と思ったという。
劇中では性同一性障害であることを妻子に告げられず悶々とするダイホンをフィリップ・キョンが熱演。その後とうとう夫から告白されて混乱する妻をカラ・ワイが入魂の演技で見せつける。安定していたかに見えた夫婦の性別役割のバランスがガラガラと崩れていく場面だ。カラ・ワイには実際「強い人」というイメージもあり、主役2人のキャスティングの妙には感心するばかり。監督は若干27歳。大学時代からジェンダーについて学んでいる。
外見上の性と本人が自覚する性との違いに苦しむ人たちはマイノリティへの理解が徐々に進んできたと言われる最近でも声をあげられずにいる。それは他人との違いを個性として認めたり、多様性を構成するメンバーとして受け入れるよりは、和を乱すものとして排除し同調圧力を強めようとする空気を敏感に感じるからであろう。
マイノリティの生きづらさといったこれまで香港映画の主流ではなかったテーマに果敢にチャレンジする若手監督の登場は、香港映画の新潮流として大いに期待したいところである。
一方のイラン映画「冷たい汗」は女子フットサルのイラン代表チーム主将の話。イラン映画にはジャファール・パナヒ監督の「オフサイド・ガールズ」があり、ユーモアあふれる中に女性がサッカーW杯を見ることができない理不尽さを描いた傑作を楽しんだが、「冷たい汗」は激しい会話劇を織り込み、さらに「告発調」を強めたソヘイル・ベイラギ監督による心理バトル劇だ。
女子フットサルイラン代表チームの主将をつとめるアフルーズはアジア大会の決勝進出を決める。しかし、決戦の地マレーシアへ向かう空港で、夫が彼女の出国を許可せず書類にサインをしなかったと告げられる。夫と話し合いを重ねるが、夫は妻の出国禁止は法律にのっとった行為と正当性を主張するばかりで、両者の溝は埋まる気配がない。
監督によると7年前に起きた実話をもとにイランの男性優位を描いた作品。何とか出国できるようアフルーズはフットサル協会にも働きかけるが、支援してくれそうな人たちに感謝するよりも熱意のあまり逆に文句をいってしまう性格のきつさもあって、気がつけば仲間は離れてしまう。そんな折り、協会の女性幹部がアフルーズの友人を手なずけようとパワハラまがいの相談を持ちかける場面は、国は違っても権力を握るものの卑劣なやり口は一緒だなと気づかされる。
アフルーズは試合に出てイランを勝利に導きたいだけなのに、夫からだけでなく同じ女性たちからも二重差別をうけ窮地に追いつめられる。絶体絶命の彼女が最後に打ち出す秘策はあるのだろうか……。
イラン国内での公開にはテレビや新聞での宣伝不許可をはじめ様々な妨害があったにもかかわらず口コミで大ヒットしたというから世の中見捨てたものではない。またこの映画の公開を受けて、夫の許可が無いと妻は出国できないという法律の見直しなど女性国会議員による改革の動きも出ているという。映画はエンターテインメントという側面も確かにあるが、絶えず不合理なものに目を光らせ果敢に描いていくことで改革していく力を持っている。そのことを改めて気づかされる。
【紀平 重成】
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