第779回「エンドロールのつづき」
映画館で初めて映画を見た時の思い出というのは人それぞれだろう。私の場合は映画好きの母にきょうだい3人で連れられて見に行った時代劇『三日月童子』(3部作)だった。場所は当時東京の中野にあった小さな劇場。東千代之介演じる三日月童子がめっぽう強く、幼稚園の運動会と重なり解決編の第3部を見逃したのがしばらくの間残念で仕方がなかった。なにしろ昭和20年代のころでビデオやDVDなど便利な道具は何一つない時代だったからだ。
一方、本作の主人公で9歳ながら映画を初めて見ることになったチャイ売りのサマイの場合、映画館の席に座ってまず目に飛び込んで来たのは客席の後ろからスクリーンへと伸びる一筋の光線だった。私自身は映画の展開に心を奪われたが彼は違った。自分も同じように映画を作りたいと思ったのだ。どうしてこんなに違いが出たのだろうか。よくよく考えれば彼には物語があったからだと思う。
バラモン教の信者であるサマイの父親は、映画は低劣なものと考え、息子が9歳になるまで映画館に行かせなかった。ところが信仰しているカーリー女神の映画は特別だと言って近郊のギャラクシー座に連れて行ってくれたのだ。動く映像の魅力に取りつかれたサマイは次の日、学校を抜け出して映画館に向かったが、チケット代がなかったため裏口から入ろうとしたところを支配人に見つかり追い出されてしまう。それを見た映写技師のファザルはサマイの母親の作るお弁当に目をつけ、半ば交換する形で映写機の構造と映画のおもしろさについて熱く語るのだった。ファザルがそこまで熱心に教えたのは、サマイの母親が愛情を込めて作るスパイスたっぷりの手料理がおいしそうだったこともあるだろうが、サマイが質問攻めで本心から映画に興味を持っていると分かったからだろう。
子どもが小さいときに映画にはまり、やがて映画監督になるという話はジュゼッペ・トルナトーレ監督の『ニュー・シネマ・パラダイス』を思い出させる。確かに似ている部分もあるが、実は本作の大半のお話はパン・ナリン監督自身が体験した事とされている。捨てられたフィルムをつないで村に戻り仲間と一緒に上映会を楽しんだり、未公開作品のフィルムが収められた大きな円盤状の缶を勝手に持ち出したりとやりたい放題だ。サマイのとった行動はやりすぎの向きもあるが、ファザルが「映画は物語があればいい」と教えてくれたように、サマイに語るべき物語を数多く経験させてくれたとも言える。
もう一つつけ加えれば映画という世界には必ず夢を抱く人を理解し支援する人が現れるようだ。『ニュー・シネマ・パラダイス』でいえば元映写技師のアルフレード、そして本作ではファザルだった。
ストーリーも面白いが、本作がユニークなのは映画がフィルムからデジタルへと変わっていく時代を描いているところ。フィルム上映に関する知識はあってもデジタル化の波に乗れないファザルは解雇されてしまう。その一方で映写機などフィルム上映に関する多くの備品は溶かされてスプーンに生まれ変わる。同じようにフィルムも溶かされこちらは女性の腕飾りとして再利用される。実際にすべてがそうなったのかどうかはわからないが、まるで「インド映画史」の一コマを見ている気持ちにもなる。
映画史といえばパン・ナリン監督は「道を照らしてくれた人々に感謝を込めて」と36人の巨匠の名を挙げて敬意を表している。日本では勅使河原宏、小津安二郎、黒澤明の3人が挙がっていたが、個人的にはキン・フーの名を見つけたのがうれしかった。残る32人の巨匠の名前はぜひとも実際のエンドロールでお確かめいただきたい。
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