追悼・再掲載 週刊テレビ番組ガイド「マイニチ とっちゃお」(毎日新聞社)2005年10月16日号
この夏、東京国立近代美術館フィルムセンターで李香蘭主演の『萬世流芳』(1942年)が上映されると、館内から拍手が起きた。2回の上映はどちらも早々と満席に。高齢のファンが2時間以上立ちっ放しで長い列を作る姿に、41年、有楽町の日劇をファンが取り囲んだいわゆる「日劇七回り半事件」を思い浮かべないわけにはいかなった。今も心のスターであり続ける李香蘭。自身の出演作について、戦後、本名に戻った山口淑子さん(85)に聞いた。
- 拍手が起きたのは李香蘭が歌いながら初めて出てくる場面でした。
よくあるんですか? 日本でそういうことって。珍しい? そういえば北京で初めてこの映画が公開された時、妹が見ていて、私が歌いながら登場すると、中国人の観客が総立ちで拍手をしたといいます。そのころも驚きましたが、そのお話を聞いてますます忘れられない映画になりました。
- 山口さんはご覧になってない?
ええ、私は自分の作品をほとんど見たことがないんです。とくに40年代の前半は一つの作品を撮ったと思ったら、もう次の作品のロケ地に飛ぶというように私の一番忙しい時代でしたから。その『萬世流芳』(1942年)は上海、『サヨンの鐘』(43年)は台湾、『私の鶯』(同)はハルピンでという風に。機会があれば是非見たいですよ。
- 『萬世流芳』は親日とも抗日ともとれる作品でした。
表面上はアヘン戦争の敵国、イギリスと戦うという内容ですが、中国人はそこに抗日の意味を読み取って見ていました。それで日本軍の勢力下にある上海で作られた作品でありながら共産党や国民党が支配する延安や重慶でも見られたのでしょう。
上海ロケはみんな親切でした。もう私が中国人ではないと薄々知っていたでしょうが。中華電影のトップスター陳雲裳さんと同じ部屋でメーキャップしたんですよ。彼女はたまたま来航した日本の軍艦「出雲」の艦長に花束を渡す役をとても嫌がっていました。もしそれをやったら私は裏切り者といわれてしまうと泣いていました。新聞に出さないという条件で渋々出たのに、新聞に出てしまったんです。日中の複雑な事情、思惑をしょっていますね、この作品は。そういう意味でも思い出深いです。
- 他にはどんな作品が?
『暁の脱走』(50年)もいい作品です。GHQの脚本担当者がうるさかったんです。ロケ地の大島まで見に来てました。この映画は戦後初の反戦映画でした。
- 日中の関係がいまギクシャクしています。
中国の若者がなぜ反日行動をとるのか。彼らの気持を考えたことがあるのでしょうか。経済的な格差拡大への不満が噴出したという声もあるでしょうが、それは小さな要因にすぎないです。彼らの祖父母ら日中戦争を知っている人から直接、間接に聞き、また学校でも習っていて根は深いと思います。映画でもっともっと相互理解を深めてほしいですね。【紀平重成】
山口淑子 1920年2月12日、中国・遼寧省瀋陽(旧奉天)に生まれる。38年、満映にスカウトされ中国人女優・李香蘭として映画デビュー。日本と満州のスターとなり、後に中国でも人気を博す。戦後は山口淑子の名で再デビュー。外交官夫人、キャスター、国会議員として活躍し、92年、政界引退。劇団四季の「ミュージカル李香蘭」は。91年の初演以来、現在も公演中。