第515回 「嘉義を歩く」

3民族混成の嘉義農林学校(KANO)による「最強チーム」(c)ARS Film Production
台湾映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」の故郷、嘉義を歩いた。その直前、台北で改めてリバイバル上映の本作を見ることができたが、野球映画のようでもあり、学園青春ものとも言えるし、さらには史実をなぞったドキュメンタリー風のスポ根物語という当初の印象も変わらなかった。しかし、この作品にはもう一つ大切なメッセージが込められているのではないかという思いも一段と強まった。1931年の夏、なぜ創設間もない弱小チームの嘉義農林学校が台湾地区予選を勝ち抜き、さらには甲子園でも決勝まで勝ち進むことができたのか。その答えこそがこの作品のメッセージであり、最大の見所である。
この作品の最初の舞台である嘉義は台湾南部に位置し、阿里山森林鉄道の発着駅もある林業の街として栄えた。台北から新幹線の高鉄で1時間半。市内に入り特産のタイワンヒノキを生かした「檜意森活村」にあるKANO故事館を訪れると、当時の野球部員が寝泊まりした合宿所の下駄箱も再現されていた。甲子園の決勝まで投げ抜いた呉投手は姓が一文字なので横書きの場合、左右どちらから読んでも間違いようもないが、漢字二文字の姓が多い日本人の場合は混乱する。小里選手や福島選手は右から、平野選手は左から読まないとおかしなことになる。当時の資料が違っているのではなく、おそらく下駄箱の名札を付けたスタッフの調査不足であろう。

嘉義の檜意森活村にあるKANO故事館には野球部員の合宿所の下駄箱も再現(14年10月2日、筆者写す=3も同じ)
現代の下駄箱作りでは混乱したが、当時のチームを構成した日本人と漢人(中国人)、原住民の3民族の結束はいささかの乱れもなかったようだ。映画の中でこんなシーンがある。
甲子園では嘉義農林学校(嘉農=KANO)の進撃に驚きつつも、最初はまぐれという思いもあったのだろう。ナインに対する記者会見で、ある記者がわざわざ「日本人はいるか」と質問した上で、日本語が分からない野蛮人との混成部隊で勝てるのかと揶揄するのだ。腹を立てた近藤兵太郎監督がこう言い返す。「野球に民族の違いは関係ない。原住民は足が早い、漢人は打力がある、そして日本人は守備がいい。3民族が力を合わせれば最強のチームができる」
少々辛らつなこの記者は嘉義農林のその後の快進撃を前に自らの非礼をわび、決勝戦では負けたにもかかわらず「天下の嘉農」と褒めたたえることになる。

部員が「甲子園」と声を上げながら走り抜けたロータリー
民族差別はいつの時代にも見られるが、それぞれの長所に光を当てて見ればイメージもずいぶん変わる。相手のいい所を見るか、それとも悪い所、あるいは嫌いな所だけを見るか。昨今の東アジア情勢にも当てはまらないだろうか。
各々が持てる力を合わせるというのは確かにチーム力強化の決め手と言えるが、それは各予選を勝ち上がってくるどのチームにも当てはまることである。近藤監督が優れた指導者と言えるのは、技術は松山商業の選手ならびに監督として身につけた理論で、体力はスパルタ練習で、そして心技体の心に当たる精神面ではある方法を使い、甲子園で必ず優勝するという気にさせたのである。
本州から見れば遠い台湾のそのまた周辺部に位置する嘉義の中でもとりわけ弱小チームだった嘉農はなぜ精神面でも強いチームに変わったのか。映画では、近藤監督が単なるスパルタ練習に留まらず、選手のランニング中、必ず「1、2、3……甲子園」という掛け声を唱和させている。「えっ、それだけ?」という疑問の声も上がりそうだが、365日、毎朝欠かさず声を発するのだから、それは自分の頭や人の耳に繰り返し響き、心の奥深くに沈殿してやがては血肉となっていくということなのだろう。実際、甲子園準優勝を成し遂げているのだから、その効果について誰も反論できないのである。
映画でもしばしば登場する嘉義市中心部に位置する噴水付きのロータリーは優勝パレードも行われた市の目抜き道路にある。この通りを選手たちは毎日「甲子園」と唱和しながら走った。現在ではずいぶん街並みも変わり、中央部には呉投手の銅像まで立ち、街のシンボル的な場所になっていた。
選手たちが泥だらけになって練習に明け暮れた練習場の跡地には嘉義市立棒球場が建ち、台湾のプロ野球にも使われている。夕闇迫るころ球場を訪れると、今は市民いこいの森となっている嘉義公園脇に他を圧するようにそそり立ち、やや高台の地から遠く夕陽が望まれる。どこからか「甲子園」という部員たちの声が聴こえて来そうなたたずまいだった。

「KANO」のロケ地巡りに疲れたら、日本統治時代に日本が作った植物園を見学。今ではすっかり市民生活に溶け込み健康志向の強い老若男女がこの通り (14年10月3日、筆者写す=5も同じ)
映画「KANO」は今年、台湾で記録的なヒットをあげ、この秋リバイバル上映までされている。日本統治下の31年の物語だが、その前年には先住民セデック族による大規模な抗日暴動の霧社事件が起きる。3民族力を合わせた美しい物語はこのような時代背景の中で行われたものだ。映画館には若者だけでなく日本語世代と思われる年配の観客もいた。いやな思いもしたこともあるだろう世代の人がなぜ映画館まで足を運んだのだろうか。推察するに、日本への反発や戦前の治水工事へ評価や感謝、懐かしさといったものが複雑に絡み合っているのだろう。

呉選手らの野球練習場跡地に建てられた嘉義市立棒球場
嘉義市内には1908年にゴムの木の生産と試験を行う場所として誕生し、その後植物園として整備された現在の嘉義市植物園がある。東大の藤井省三教授の友人で、同市の親善大使としてグルメをはじめとする食文化情報を発信している作家の李昂さんに植物園も案内していただく幸運を得た。
現在は市民の憩いの場として親しまれている植物園には日本が南方進出のデータを集めるための研究の場という意味合いは当然あったろう。物事には様々な見方があり中には対照的な見解も起こりうる。台湾の人々の大陸観にしても決して一つではないし、ましてや親日的といわれる台湾人の複雑な思いは敬意を持って受け止めたい。
「KANO」の公開に向けて日本では様々なイベントが行われ始めている。是非この機会を真の友好のために生かしてほしいと祈らずにはいられない。私が見たのは今年の大阪アジアン映画祭と台北でのリバイバル上映の2度。どちらも感動した。野球にまったく関心がなくても面白く、好きな人はなおさらお勧めしたい作品だ。
「KANO 1931海の向こうの甲子園」は2015年1月24日より全国公開【紀平重成】
【関連リンク】
「KANO 1931海の向こうの甲子園」の公式サイト
http://kano1931.com