第521回 「高倉健さんとアジア」
「男らしく、優しい」。亡くなった高倉健さんの思い出を聞かれ、新聞やテレビでこう答える人が多かった。中には「典型的な日本男児」とまで言う人もいた。そうだろうか。中国でも高倉さんの死を惜しむ声が相次いでいる。80年代後半に東映のヤクザ映画にヒントを得て作った香港映画が日本を含むアジアで大ヒットしたこともある。ドラマの「おしん」ブームが起きたように義理や人情、あるいは耐えるといった心理はアジア共通のものではないのか。「高倉健さんとアジア」の小文で健さんの死を弔いたい。
作家や映画人の中にはアジアとのつながりを持つ人がいる。大連で育ち日本に引き揚げた故高野悦子さんはその体験を語り継ぎ、晩年は韓流ドラマを愛した。
作家の村上春樹さんは戦後生まれで直接の体験はないが、中国大陸での戦争の経験を決して語ろうとはしなかった父親の背後に戦争のおぞましさを感じ取り、昇華した思いを小説の中に取り込んでいる。
本欄に何度か出ていただいた日中の映画研究者・劉文兵さんによると、福岡県出身の高倉さんにも中国との接点があった。戦前、満洲(中国東北地方)へ出稼ぎに行った高倉さんの父親が、病気がちで伏すことの多い息子を不憫に思い「お前に白系露人の女をお嫁さんにもらってやる」と勇気づけたエピソードが「証言 日中映画人交流」(集英社新書)で紹介されている。
偶然かもしれないが、高倉さんがスカウトされたのも旧満映(満洲映画協会)の流れをくむ東映で、大陸とのつながりを感じないわけにはいかない。
こうしたつながりはアジアへの親近感となり、あるいは厳粛なる事実を見つめさせる。上から目線で相手を居丈高に恫喝するという発想とは縁遠いものだ。
高倉さんの「君よ憤怒の河を渉れ」(佐藤純彌監督)が78年に中国で公開され1億人が見たというエピソードは有名だ。文化大革命の嵐が吹き荒れ娯楽作品に飢えていた当時の中国人にとって、文革後にようやく見ることのできた日本映画の娯楽性と高倉さんの格好よさは“黒船級”の驚きだったに違いない。
他の日本映画も上映されたのに「追捕」の名前で公開された同作品が記録的なヒットとなったのは一重に主演の高倉さんのお陰と言っていいだろう。中国の観客は、冒頭の「男らしく優しい」は当然として、自己に厳しく一途で人に尽くさないではいられないという主人公の性格を、演技としてではなく高倉さん自身の姿と重ね合わせて見たのかもしれない。そして高倉さんの中のアジアにシンパシーを持っている気配を嗅ぎ取ったのだろう。
劉文兵さんの「証言 日中映画人交流」にはこんな話も紹介されている。
「チョウ・ユンファとジョン・ウー監督とね、1時間以上話したことがあるよ。いかに自分たちがいっぱい東映映画を見たかっていう話とかね」「『男たちの挽歌』の下敷きはもう、全部東映映画ですっていう話をジョン・ウーさんがしていた。で、ああ、そうなのっていう話をして、そして、いつか一緒に仕事をしたいですねって言っていた」
もうその機会はなくなってしまったが、高倉さんが残した大きな大きな足跡を思わないわけにはいかない。
彼が一方的に影響を及ぼしただけでなく、逆に彼が教えてもらう機会もあったようだ。
チャン・イーモウ監督のたっての願いを聞き入れて撮った「単騎、千里を走る。」がいよいよクランクアップになった時、中国人スタッフが抱き合って喜ぶ姿を見て、改めて映画の力を思い知らされたという。その感動は逆にどうしてもこの映画を作るんだという強い思いがないと映画が撮れなくなってしまうという反動も生んだ。遺作となった「あなたへ」までの6年の空白にはそんな背景もあったのだろう。
その降旗康男監督の手になる「あなたへ」には特にアジアへの思いといったものは出ていない。家族を含む人間への接し方を若い世代にお仕着せがましくなく語る姿が印象的だった。日本的な俳優として語られることの多かった高倉さんだったが、実はアジアへの視線もあり、さらにもっと遠く、人間とはという深い考察、思いがあったのではないか。
死んでから10日近くたってからの公表。その去り際もなんだか健さんらしい。合掌。
【紀平重成】
【関連リンク】
高倉健さん追悼対談:…加藤登紀子さんと倉本聰さん
http://mainichi.jp/feature/news/20141119mog00m040020000c.html