第581回「ヒロシマ、そしてフクシマ」
肥田舜太郎医師、99歳。1945年8月6日広島に落とされた原爆の目撃者。直後から軍医として被爆者の治療にあたり、後から症状が出てくる内部被曝の怖さを世界に発信し続ける。2011年の福島原発事故でも現地に足を運び、「福島(の原発被害)は終わってはいない。これからです」と警告する。高齢にもかかわらず、今なお社会に関わろうとする訳は? いつも笑みを浮かべる精神力の強さはどこから来るのか? そんな問いが映像を見ているうちに次々と浮かぶ。
広島、長崎の原爆に加え、ビキニ環礁での水爆実験被害にも苦しんだ日本。世界で唯一の被爆国でありながら福島の原発事故に遭い、その傷も癒えないまま停止中の原発再稼働に走りだし、さらに原発の海外輸出に舵を切ろうとするのはなぜなのか。被爆者の治療や反核活動の貴重な生き証人である肥田医師こそ、いま耳を傾けたい人である。そう考えたフランスのマルク・プティジャン監督が2006年の「核の傷」に続き肥田医師に密着して撮った作品だ。
肥田医師が内部被曝に気付くこんなエピソードが紹介される。45年8月6日以降、被爆者の治療にあたっていた肥田医師は、当日広島にいなかったため爆撃を直接受けていない人々が、後になって発病し、被爆者と同じ症状で死んでいくのを次々と目撃する。「ピカにあっとらんけ」と訴える患者を調べてみると、確かにやけどの跡はなかった。それが内部被曝だった。しかし、当時は原因が分からずアメリカも隠そうとしたので、「うつるよ」という感覚で受け取られていたという。
体内に入った放射線が悪さをするらしいと分かって肥田医師は東京・日比谷の連合国軍総司令部(GHQ、場所は今の第一生命館)に向かう。予約の確認を求める兵士に追い返されても毎日通い、12日目に顔見知りとなった兵士に目的を聞かれ、ようやく「体内に入った放射線の治療方法を知りたい」と訪問目的を告げる。話を聞いた担当官の回答は非情だった。「その件はマッカーサー総司令官でもダメだ。大統領しか答えられない。いくらお前が正しいと思っても、それではダメ。パワーを持つものが物事を決めるのだ。帰れ」
悔しさを噛みしめながら、諦めきれない肥田医師は、その足でパワーを手に入れようと代々木まで歩いて行く。そこには日本共産党のオフィスがあった。
放射線と内部被曝についてについて肥田医師はこう言う。「本人に(取り込まれたという)自覚がないから怖い」「治療法はない。被爆した者が生きのびる方法はたったひとつ、自分が親からもらった健康力、健康な力を伸ばして、自分で自分の命を守って闘う。それが放射線との闘いだ」
こんな厳しい言葉をはきながらも肥田医師は96歳(撮影当時)の老体にムチ打ち、全国を講演して回る。それは今や唯一の被爆医師となってしまった者としての執念と責任感であろう。
「ヒロシマ、そしてフクシマ」は3月12日よりユーロスペースほか全国順次公開。【紀平重成】
【関連リンク】
「ヒロシマ、そしてフクシマ」の公式サイト
https://doctorhida.wordpress.com/