第597回「不思議惑星キン・ザ・ザ」
カルト的な人気を誇るSF作品が帰ってきた。原題も「KIN-DZA-DZA」(キン・ザ・ザ)とシンプルでいいが、邦題は内容をズバリ言い表し、しかもリズミカルで力強い。もう見る前から期待感が膨らむこと間違いなしの作品である。
内容を紹介する前から少々入れ込んでしまったが、旧ソ連時代の1986年の完成試写会では、評論家から散々こき下ろされたというから、世の中分からないものである。変わり種すぎて理解されるのに時間がかかったのか、それとも時代の方が変わり理解され出したのか。即断はできないが、おそらく後者だろう。公開時期に注目すると見えてくるものがある。
時はソ連崩壊5年前の1986年。市民は旧弊がはびこりモラルも腐敗している体制にウンザリし、自由を求めていたはずだ。不満のはけ口を探し、それを押しとどめようとす
る障壁に少しでも弱い部分があれば、それを突き破り、たちまち奔流となって吹き出す状態だったに違いない。
その時公開されたのが本作品だ。内容を紹介しよう。
建築技師のマシコフは、帰宅直後に妻からマカロニを買ってきてほしいと頼まれ街に出る。街角でバイオリンを抱えた見知らぬ青年に「あそこに自分は異星人だという男がいる」と声をかけられる。面倒だと思ったマシコフは警察に任そうと提案するが、青年は「裸足で寒そうだから」と譲らない。仕方なく自称異星人の男に近づくと、男は「この星のクロスナンバーか座標を教えてくれ」と訳の分からないことを言う。それには取り合わないで、マシコフが男の手にあった空間移動装置のボタンを押した途端、マシコフと青年は地球から遠いキン・ザ・ザ星雲のプリュク星へとワープしていた。
まず製作国が、いまは存在しないソ連と、国の名前の変わったグルジアというところが何となくSF風である。ソ連は91年末に崩壊しロシアに、一方グルジアは同国の要請を受けた日本が2015年に国名をロシア語表記から英語表記のジョージアに変えている。
そして86年の最初の試写では途中で席を立つ人がいたり、撮影所に抗議の手紙が殺到したりと多難な出足。手紙の内容も「政府はなぜあんなクズに金を費やしたのか」「監督のやつ、人気俳優をよくもあんな駄作に使えたものだ」と手厳しいものばかりだった。しかし公開してみると反応はまったく逆で、1570万人が押しかけた。日本で言えば超大ヒット作である。
中でも若者は映画館から出てくると、異星人たちが挨拶の際に両手を「ハ」の字状にだらんと下げながら「クー」と言うのを真似したという。とりわけパトカーを見かけようものなら、故意にポーズをとって「クー」と叫んだというから、これは挨拶というより、若者特有のからかい、あるいは体制側への反発の意思表示だったのかもしれない。
それにしても宇宙船が釣鐘型で、地上の砂ぼこりを噴き上げることなくふわっと着陸したり、中から現れた異星人たちがマシコフら2人をほぼ身ぐるみはがして立ち去ったのに、マシコフが気を取り直してたばこを吸うためマッチを擦った瞬間、釣鐘型宇宙船が舞い戻りマッチを必死に欲しがるという展開は、まるでドタバタ喜劇を見ているかのように笑える。
宇宙船はこうあるべきという先入観を見事に肩透かしし、マッチ1本で宇宙船のエンジンが買えるという設定も観客の常識をはぐらかす。そうかと思うと、この星には演奏する際に檻(おり)の中に入らないといけないという奇妙なルールがあり、人々はその制約に慣らされている様子が描かれる。
見方によっては「周りの常識を疑い声を挙げろ」「我々は本来自由なんだ」とのメッセージを監督が込めた作品なのかもしれない。そして人々が社会を疑わずにこのまま行けば映画で描かれるようなぼろを身にまとい、ガラクタの金属に囲まれた暗い社会になると警告しているようにも見える。ドーピング問題に揺れる今のロシアを見ていると、風通しのいい社会を作ることの大切さを改めて思う。
30年前の作品だが、今見ても新しく、様々な見方が可能な作品だ。
同作品は89年に都内で開かれた「ソビエトSF映画祭」で紹介され、2001年にニュープリントで劇場公開。今回はデジタルリマスター版での公開となる。
「不思議惑星キン・ザ・ザ」は8月20日より新宿シネマカリテほか全国順次公開【紀平重成】
【関連リンク】
「不思議惑星キン・ザ・ザ」の公式サイト
http://www.kin-dza-dza-kuu.com/