第688回 「止められるか、俺たちを」

ピンク映画を撮影中の若松孝二監督(井浦新=中央)と助監督として働き始めた吉積めぐみ(門脇麦=左) (C)2018 若松プロダクション
1969年春、助監督志望の21歳女性が若松プロダクションのドアをたたいた。その2カ月前、東大安田講堂は「落城」したが、ベトナム反戦など学生運動は全国に広がり世情は騒がしかった。本作はこの女性吉積めぐみの目を通して、若松孝二とその時代を共にした異才たちを描く青春群像劇だ。

監督にはなりたいが、まだ何を撮りたいかのか分からない吉積めぐみ (C)2018 若松プロダクション
2012年に交通事故で亡くなった若松監督は60年代半ばからピンク映画を量産し、「ピンク映画の黒澤明」と呼ばれた。65年に誕生した若松プロダクションが、大手の映画会社に対抗するには低予算、早取りに加え、企画力と時代の空気に突き動かされたような熱気が必要だったのだろう。若松監督の「ここで働けば3年で監督になれる」の殺し文句に誘われるように後の映画界を担う人材が続々と集まり、脚本を書く人がいるかと思えば、論争し、酒を飲んだ勢いで喧嘩する者もいて、狭い事務所はさながら梁山泊のような空気が漂っていた。
たとえば、若松映画のメーンの脚本家で後に日本赤軍に合流した映画監督の足立正生や助監督からスタートし、その後「日本昔ばなし」の脚本で名を挙げた脚本家で映画監督の沖島勲、若松作品のほか鈴木清順監督作品などの脚本も書いた大和屋竺、さらに若松プロを去った後、無印良品、チェッカーズのプロデュースなどで多彩な才能を発揮した秋山道男、雑誌「映画芸術」編集長で脚本家、映画監督の荒井晴彦などが若松プロに足しげく通った。

若松監督の脚本を書いた足立正生(山本浩司=左)は監督と一緒にカンヌ国際映画祭監督週間に招待される (C)2018 若松プロダクション
若松監督には「世の中をぶっ壊せ」という熱い思いと共に、外見には似合わぬ優しさや面倒見の良さなど人を魅了する側面があったのだろう。失敗した助監督に「俺の視界から消え失せろ」と怒鳴っても、後で「飯食いに行くか」と声をかけるなど、才能を見抜き、育てようとする度量もあった。

プロダクションの入ったビルの屋上で撮影するスタッフに笑みがこぼれる (C)2018 若松プロダクション
本作の白石和彌監督も主役の吉積めぐみと同様、若松プロで助監督を経て映画人生を歩み出した一人だ。今でこそ「凶悪」「孤狼の血」などの作品で知られる白石監督も、駆け出しの時は「自分が何を表現したいのか」「何者になりたいのか」も分からず焦っていた。その思いをめぐみに重ねる映画にすることで、自分も含めた普遍的な青春映画になると思ったという。結果的に師匠の生きざまを映画の中に甦(よみがえ)らせるという難易度の高い作業もクリアし、若松プロダクションの映画製作再始動第一弾の栄誉を担うことになった。
若松プロに集まったり作品に出演した経験のある多くの人たちが本作の話に胸を熱くし再結集した。その一人で「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」「11.25 自決の日 三島由紀夫と若者たち」の若松作品に出演した井浦新は「若松プロに集結した親しい顔ぶれ、真新しい風を吹かせた若者たちと、むちゃくちゃで幸せな夢をみた。ただただ感謝しかありません」とコメントを寄せている。ほかの出演者やスタッフも同じ思いだろう。若松監督のDNAを受け継いだ面々が、一堂に会し、師匠にお礼の「歌」を返すような試み。「俺の映画を作ったって?」「世界を撃つ映画になったか?」と問いただしそうな監督の姿が思い浮かぶ。

大島渚監督(高岡蒼佑=中央)はやがて若松監督をプロデューサーに迎え「愛のコリーダ」を撮影する (C)2018 若松プロダクション
私にとっての若松監督の一番の思い出は、「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」の試写会場の出口で、さあ、感想を聞かせてもらおうかとでもいうように仁王立ちしていた姿。うっかり通り一遍の感想など述べればしかり飛ばされそうなオーラに満ちていた。あの姿が懐かしい!
「止められるか、俺たちを」は10月13日よりテアトル新宿ほか全国順次公開
【紀平 重成】
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