第696回 2018年東京フィルメックス 主役は「中国映画」
ちょっとタイミングを失した感もあるが、年が改まる前に今年の東京フィルメックスについて触れておきたい。一時期開催が危ぶまれたものの、例年と変わらない、いや例年以上に力のこもった作品がコンペティションに集まった。同映画祭がスタートして間もないころから通い続けているファンの一人として今年も有楽町の会場に通えたことは何物にも代えがたい喜びである。
そのコンペ10作品のラインナップを見た時、最初に感じたのは「例年より中国映画が多いのでは」というものだった。だが調べてみるとそれは筆者の勘違いで、2017年は中国映画が今回と同じ3本。そして驚いたことに18年の今年は合作という形で中国資本の入った作品も含めれば計6本。実にコンペ作品の半数以上が中国資本の参加する作品だった。
だがここで参加本数の多さを語るつもりはない。やはり量よりは質である。その作品が良いかどうかの判断には主観が入るので、一つの物差しとなるのが審査委員たちによる授賞結果だ。すると……。最優秀作品賞に輝いた「アイカ」から始まって審査員特別賞の「轢き殺された羊」、スペシャル・メンション「夜明け」、観客賞「コンプリシティ」、学生審査員賞「ロングデイズ・ジャーニー、イントゥ・ナイト」に至るまですべての授賞作品が100%ないし一部中国資本の参加する作品だった。これを「偉業」と呼ばずして何と呼ぼうか。
もともと参加している作品が多いのだからこの結果は当然という見方もあるだろう。が、しかし、ここは素直に授賞作品のレベルの高さを評価し、また出資するにあたっての目利きの確かさを認めざるを得ない。誤解を恐れずに言えば「恐るべし中国映画」であり「あっぱれ中国映画界」なのである。
前置きが長くなった。わたしの見た中国映画3作品の感想についてご紹介したい。いずれも間違いなく私の心を打つ作品だった。
最初は「象は静かに座っている」。フィルメックスでは授賞しなかったが、その直前に台湾の金馬奨で最優秀作品賞に輝いた。中国北部の地方都市で暮らす4人の登場人物たちの1日を4時間弱の長尺で描いた話題作。今年の2月、ベルリン国際映画祭フォーラム部門でワールドプレミア上映されて国際批評家連盟賞を授賞したが、監督のフー・ボーは本作を撮り終えた後に自殺した。
自ら死を選んだ理由については本人がいないので確かなことは分からないが、作品の長さをめぐってプロデューサーとの間で論争があったという。映画の導入部分で友人の妻と浮気をしているのを見られた男が、事実を知り窓から飛び降りた友人の死に対しさしたる感情を示さなかったり、自分勝手な不満を相手にぶつける殺伐としたやりとりに一気に映画の世界に引き込まれ、個人的には長さをまったく感じなかった。それよりは社会に深く淀む利己的な考え方や信頼感の喪失といった終末観さえも浮かび上がらせる容赦のない描写に目を奪われたのである。
では希望はないままなのか。人生にそれぞれ挫折した男女4人が、それでも内蒙古自治州フルンボイル市の西端に位置するロシアとの国境の町満州里へと共に向かうラストシーンからは希望とまではゆかないものの、心の傷をなめ合って、しばし心の安寧を得る場面が印象的だ。その後どうなるかは見る者にゆだねられている。老人問題、家庭崩壊、教育現 場の荒廃までも浮かび上がらせ、傑作である。
続いてビー・ガン監督の「ロングデイズ・ジャーニー、イントゥ・ナイト」。「凱里ブルース」で注目された同監督が今度は映画の後半、約1時間にわたる長回しの3D映像で観客を夢の世界に誘う。
舞台は中国貴州省の凱里市。父の葬儀に出席するため久しぶりに帰郷したルオは、忘れられないある女性を探し求めて、ネオンに彩られた街をさまよい歩く。夢と現実を対比させつつ一つの物語に融合させた映像はただならぬ緊張感に支配され、物語の世界にグイグイと引き込まれていく。
監督が作品後半の夢に当たる部分で3D映像を使ったのは、この技術を使うと映像が立体的に見え、それがかえって偽物っぽく見える特性があり、ちょうど主人公が夢を見ている感覚を表わすのにぴったりだったからという。そう言えば筆者は何度か空を飛ぶ夢を見ているが、この浮遊する足元の心もとない感覚は本作の中で主人公がリフトに乗りゆっくりと下に降りていくカットとよく似ていて驚かされた。
主人公が忘れられない女性を求めてさまよい歩くのは、それ自体が夢なのか、それとも記憶が揺らいでいくのか。これもまた観客の感性にゆだねられている。
タン・ウェイ、シルヴィア・チャンら豪華キャストを長回しの3D撮影のために何度も同じ演技をさせ何日も拘束したという監督の度胸の大きさにも感心している。
そして最後はペマツェテン監督の「轢き殺された羊」。まるで西部劇を思わせるチベットを舞台にしたロードムービー。ジンパと呼ぶ同じ名前の2人が出会い、一人は復讐のために人殺しを企て、もう一人は誤って轢いてしまった羊を成仏させようと救済を求める。弔いもすんだジンパはもう一人との再会を求めるが、やがて同じシーンが繰り返され、2人の夢が重なるように見えてくる。実は2人は同じ人間で、どちらかが夢とも思える構想になっている。となれば解釈は見る人の自由にお任せということになる。
そこで考えたのは中国とチベットの関係だ。ジンパのように殺しと慰霊の双方をやろうとすれば新たな軋轢を生むことになる。それは望むところではないだろう。ならばせめて夢の中で怨念を晴らすことができないか。それが相手を許すということではないか。信仰上当局から様々な圧力を受けるチベット人の複雑な思いを暗示しているのではないかというのが私の勝手な解釈である。
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