第701回 「バーニング 劇場版」
「ペパーミント・キャンディー」「オアシス」などで知られる名匠イ・チャンドン監督の実に8年ぶりの作品。しかも村上春樹の短編「納屋を焼く」の設定を借り148分の長編に改変したミステリードラマという謳い文句付き。さらに昨年のカンヌ国際映画祭で是枝裕和監督の「万引き家族」とパルムドールを争った作品である。話題性はもう十分だが、実のところどんな作品なのか。
アルバイトで食いつなぐ小説家志望の青年ジョンスは、街角で幼なじみのヘミに声をかけられ、その晩、彼女がアフリカ旅行へ行っている間に飼い猫の世話をしてほしいと頼まれる。帰国したヘミは、アフリカで知り合ったという男を連れていた。紹介されたその男ベンは手料理を楽しみ豪華なマンションでパーティーを開くなど裕福な暮らしをしていた。ある日、ジョンスは引き取り手のない田舎の実家でヘミとベンの訪問を受ける。酔いつぶれたヘミが奥で寝ている間、ベンは「僕は時々ビニールハウスを燃やしています」とジョンスに打ち明ける。次の放火場所はすぐ近くで決行日も間近と聞いて胸騒ぎを覚えるジョンス。さらに好意を寄せていたヘミがその日から行方不明となり動揺する。
平凡な暮らしをしていた人に突然訪れる不可解な出来事。考えてみれば姿を見せない猫や無言電話、水のない井戸など村上春樹ワールドを彷彿とさせる不思議な話が映画の中に散りばめられている。父親と離婚し長年音信不通だった母親がジョンスの前に突然現れたのもその一つと言えるかもしれない。
ヘミが言うように実家の近くには本当に井戸はあったのか、ベンの正体は、そしてヘミはどこに消えた? いくつもの謎を残したままラストを迎えるという展開も村上作品に共通しているように思う。
だが、そんな見た目の類似性よりももっと深いところで村上作品と共通していると思うのは程度の差はあっても作品に必ずメッセージが込められているところだろう。「ペパーミント・キャンディー」や「オアシス」などイ・チャンドン監督の作品には初期作品から一貫して複雑化する現代社会への強い危機感や生き方への不安感が背景に描かれている。今作でいえば格差の拡大や若者の生き辛さといった問題の指摘だろう。謎の男ベンがジョンスに告げた「役に立たないビニールハウスを焼く」「焼かれるのを待っている気がする」という言葉には物事を価値がある物、ない物という尺度で分別する傲慢さを感じ、そのような物言いを生んだ社会の荒廃をうかがわせる。
またベンはわざわざ自宅でパーティーを開催しながら、それすらも退屈と言わんばかりにあくびをかみ殺す。世間的には満ち足りた生活を送る彼にはもはや放火することぐらいしかやりたいことはないのかと思わせる。
村上作品にもオウム真理教をイメージさせる新興宗教団体が出て来たり日中戦争という歴史の記憶が登場人物の口から語られる。一つ一つはバラバラでもどこかでつながっているという点ではイ・チャンドン監督作品と極めて似ているのである。
簡単に解決できる道筋が見つかるはずもないが、かすかな希望だけでも持ちたいのが観客の心理。それに対する監督の回答は……。伏線は回収されぬままラストに衝撃の結末が待つ。これもイ・チャンドン流と言えるだろう。
「カンチョリ オカンがくれた明日」「ベテラン」のユ・アインが不安感にさいなまれるジョンスを好演し、彼を翻弄するヘミをオーディションで選ばれた新人女優チョン・ジョンソが魅力的に演じる。また謎の男ベンを「オクジャ/okja」のスティーブン・ユァンが味わい深く演じている。同作品と合わせ彼は2年連続でカンヌ国際映画祭のコンペ作品に出演したことになりにわかに注目されている。果たして3年連続はあるのか。興味は尽きない。
「バーニング 劇場版」は2月1日より全国公開
【紀平重成】