第724回 没後10周年記念ヤスミン・アフマド特集上映で来日したピート・テオに聞く
2009年に51歳という若さで急逝したマレーシアの伝説的な映画監督、ヤスミン・アフマド。彼女の没後10周年記念特集上映のため来日した音楽家ピート・テオに聞いた。
ヤスミン・アフマド監督の代表作「タレンタイム〜優しい歌」などの音楽を担当したことで知られるピート・テオだが、それ以外にも俳優、シンガーソングライター、映画プロデューサー等ジャンルを超えて活躍するマレーシアを代表するマルチ・アーティストだ。
インタビューも2018年に制作されたイン・リャン監督の「自由行」(東京フィルメックス)での名演技から始まった。
——創作の自由のため大陸から香港に自主亡命せざるを得なかった映画作家を側面から支えた夫の役でとてもいい味を出していました。
ピート・テオ 「彼は香港出身という設定ですから北京語はうまくないんですね。逆に実際の私は香港人じゃないのに広東語を地元の人のように流ちょうに話さなければいけなかった。そこが本当にチャレンジでした」
——言葉が入り乱れている中でもいい夫のイメージを出すのも大変でしたね。
「子供も居るし。これがすごく大変だったんですよ。ロケ中にどこかに行っちゃうんですから」
——(笑)とても印象深い作品でした。
「ありがとうございます」
——ヤスミン・アフマドさんがマレーシア映画や世界の映画に与えた影響について、また昨年5月の政権交代についてお聞きします。
「彼女の作品というのはほぼ都心で上映されています。地方では滅多にかからない。それでも都市以外の観客が見たときにものすごく影響を受けるんですね。実際に彼女の映画が政権交代を起こしたとは言いません。でも人々の考え方には非常に大きく影響を与えていると思います。特にアーティストに与えた影響は巨大なものがありますね」
——先ほどの(共同)会見で「ヤスミン監督が映画を作ることは危険性をはらんでいた」とおっしゃいましたが、具体的にはどんなことを指しているのでしょう?
「『細い目』(2004年)のようにマレーシアの女の子が中国系の男の子と恋に落ちる。マレーシア以外の人にとってはフーンという筋書きかもしれませんが、当時のマレーシアは今よりも人種差別的で、非常に男性上位的な風潮でした。ですからあの映画はマレー系の女の子は自分の人生を捨てているというか、身売りしたように受け取られてしまった。実は『細い目』の公開後にヤスミン監督は郵送されてきた銃弾を受け取りました『グブラ』(05年)の上映時にも銃弾を受け取りました。だから身の危険を感じますね。今でもバリバリの右翼思想で男性上位という価値観を信じる一部の人にとってヤスミン監督は受け入れられていないですね。時がたっても。映画の中の彼女はマレー系であることを投げ捨てているという見方で、正しいムスリムじゃないとあの行為は思われます。これが逆だったらいいんですよ。女の子が中国系で男性がマレー系だったらまた話は別です。ですからこの20年で見て一番勇気があると私が思うのはそこなんです」
——彼女の考え方がマレーシアの現状に対して早すぎたということでしょうか?
「いえ、そんなに先に行っていたといういうことはないと思います。そういった市民社会が平等であるということはもう謳われていて、それが実行されているべきですね。ただ映画はポップカルチャーと考えるなら、多くの人が娯楽として見に行くと考えたときに、やはり映画でこういったものを描くということの影響は懸念されます。特に彼女はずっとテレビCMを作ってきましたからCMでそういうことをやられると国中の人に見られます。テレビですからね。そういうことを考えると一部の人種差別の人には都合が悪いと見られたわけです」
「彼女が亡くなった後でアーティストに与えた影響というのはインターネットで見ることができます。何らかの規制に引っかかったりしないようにということで、インターネットで作品を発表するようになった人はそうすることによって検閲を迂回することができる。たとえばYouTubeに投稿したりとかですね。こういった作品を見ると若い人の場合怒りに満ちたトーンの作品が多かったように思います。ヤスミンの作品は怒りを一切感じませんが、若者の作品には怒りを感じる。こう言った作品が政権交代には貢献している部分があると思います。でもヤスミン監督はそう言った役割を果たした最初の人ではなかったかもしれませんが一番大事な人の一人かもしれません。彼女が存命であればきっとネットでいろいろなものを発表していたと思います。やはり劇場で公開するとなると、特に都市部に限られてしまう彼女の作品は収益を上げられないので、到底次の作品を作る資金を得られないので、きっとネットで作品を発表していたと思います」
——日本の国情と一部似ているなと思いました。どこも同じなんだなと。
「おっしゃる通りです。マレーシアの若い人に政治参加してほしいと、それを伝えることがとても大事だったわけですね。当時の政治は腐敗が進んでいました。やはり変えなくてはということで、なんとマレーシアの投票率は86%、平日にもかかわらずですね。若い人が参加しないと政治は人々の手中からすり抜けコントロールできなくなるということが危機感を持って迎えられたんですね」
——それは都市部、地方とも同じだったのでしょうか?
「ちょっとだけ都市部の方が高かったですが全国ほぼ同じでした。ただ単に投票したのではなく非常に戦略的でした。イスラム原理主義的な人たちが政権側に多かった。今度の選挙ではちょっとリベラルな人とインド系の原理主義者たちがいて、だれであっても現政権以外の人に入れたんです。野党であればということで。犬でもサルでも現政権以外ならOKと。それほど腐敗した政権を倒したかったんです」
——それで(マレーシアは)復活したんですね
「でも、かつてのマレーシアを取り戻せたということはないと思います。政治家は政治家であり、現状に満足している人はわずかであり、わたくしもこれで答えを得たとは思いません。ただ競争というか、チェックする機能が政治には必要だと思います。新生マレーシアといってもあと戻りしている部分もあります。ですから常に圧力をかけ監視していること。もし今回うまくいかなければ、次はまたほかの人に投票先が移るんだよということで、政権側に危機感を与えることが大事なんだと思います」
——その関連ですが、先ほどの会見で三つの系統、マレー、中国、インドの人たちが一緒に作る映画の話をされました。興味深いので、そういう動きがあるのかどうか?
「映画の世界では各系列のスタッフが混在しているというクルーはあります。でも社会全体として変わり、共存していかないと。真の共存ということを考えるとすごく時間はかかると思います。広告業界は進んでいてクルーの混在はよくあることです。ただ映画となるとマレー語、中華系と別れている。作品を見る人も別れている。例えばクルー間の意思の疎通にも影響が出てくるんですね。英語を話す人は英語という共通語がありますからいいのですが、マレー系の人だけで寄り添うということになると、それ以外の言語の人は結構入りづらいですね」
——まだまだ時間がかかるということですね。
「やはり50年間ずっとこの政権でやってきた事を一晩で覆すというのはできない。20年、30年はかかるんじゃないか、やはり教育ですね。自分が取り残されていないか、自分もその一員だということを教育を通して自覚し育っていくということが大事なんですね。テレビと組んだり大企業から話があったときにそこには政党が絡んでくるんです。例えば政権が変わると、いきなり放送局から電話がかかってきて仕事の依頼がきます。それはたぶん前政権の時にわたしは危険分子的に見られていたということですね」(笑)
——どういう電話が来るんですか?
「政権が変わったとき、私たちは市民の声に答えてない、遠く離れたところに来てしまったなと思っていたわけですね。というのもマレーシアはすべてライセンス制なので政府が認可しないと放送を続けられず結局反政府的なことは言えない。だけど新政権に代わってから放送局が『考え方の近いところにいる人は誰だ』『ああピートだ』と考えた結果、白羽の矢が当たり連絡が急に来たんだと思います」(笑)
——兆しもあるんですね
「社会がそのように変革されてきています」
——そこで振り返るのですが、ピート・テオさんにとってヤスミン・アフマドさんはどういう存在なのでしょうか?
「ともに仕事をしていったけど、私たちは顔を合わせるとか一緒に仕事をするということは少なかったんです。彼女の出張が多かったり、私も同じところにいなかったので。でもお互いのクリエイティビリティをとても尊重し尊敬していた。似ている部分はある種の才能を持って、それを生かせる立場にある。だけれどもそれには責任が伴うんだと、生まれながらの素質をもらってよかったなではなくて、それを使って何かを伝えるには責任をもってしなくてはいけないという意識が共通だったと思います。あと観客に訴えかけるもの、理性や知性よりも感情ですね。前衛的な物を作って突飛なことをやろうという思いはなくて、やはり人に届くもの、それが非常に共通してあったということでしょうね」
『伝説の監督 ヤスミン・アフマド特集』は8月23日までシアター・イメージフォーラムにて公開【紀平重成】