第757回「鵞鳥湖の夜」
『薄氷の殺人』でグイ・ルンメイの新たな魅力を引き出したディアオ・イーナン監督が再びタッグを組んだノワールサスペンス。前作では魔性の女を演じたグイ・ルンメイが今作でもバイク窃盗団のリーダーであるチョウの人生をもてあそぶ運命の女を演じる。
再開発から取り残された中国南部の鵞鳥湖(がちょうこ)周辺はギャングたちの縄張り争いが激化していた。刑務所を出て古巣のバイク窃盗団に戻った男チョウ(フー・ゴー)は、別グループとの争いに巻き込まれ、逃げる際に誤って警官を射殺してしまう。
指名手配された彼は、自分にかけられた報奨金30万元を妻子に残そうと画策する。そんな彼の前に、妻の代理だとして見知らぬ女アイアイ(グイ・ルンメイ)がやって来る。水辺の娼婦として生きる彼女と行動を共にし始めるチョウだったが、警察や報奨金強奪を狙う窃盗団に追われ、後戻り不能の袋小路へと迷い込んでいく。
監督の上手さを感じるのは、物語の行方を左右する謎の女アイアイがチョウはもちろん警察や窃盗団にも最後まで本心を明らかにしないという設定になっていることである。そもそも映画の最初の場面がそうだった。雨が降りしきる駅の高架下で柱の陰に立って辺りをうかがうチョウにアイアイが「お兄さん、タバコの火を貸して」と近寄り、続けて「いくら待っても奥さんは来ないよ」と耳打ちするのだ。その一方、「私を好きにしていいのよ」とも曰くありげに語る。いぶかしんだ男が「(お前の話を)信じろと?」と質すと今度は「そんな事言われても困る」と女ははぐらかす。じれたチョウは警戒心を維持しつつも彼女と行動を共にするほかはなかったのである。
蓮っ葉で物憂げな物言いをしつつ胸の内は一切明かさない女をグイ・ルンメイは魅力的に演じている。青春映画のスターとして活躍した時代も透明感にあふれ美しかったが、ディアオ・イーナン監督は影のある女の美しさを見事に引き出している。タイトルを『鵞鳥湖の女』としてもいいほどに本作の中心人物なのである。
監督の非凡なところはそれだけではない。中国の犯罪組織や底辺でうごめく人々の厳しい現実をリアルにあぶり出すだけでなく、光と影のコントラストを追走劇など様々なシーンに多用する革新的な演出で観客の目を引きつけていく。また画面が静から動、動から静へと転調する際には琴のような弦楽器をジャランと鳴らす効果音一つで次の章へと進めてしまう。画面の隅々まで映画の楽しさを行き渡らせる術を心得えているのであろう。
映像は素晴らしいのに物語自体は何ともやるせない。こんなに出口の見えない闇を描いた映画だというのにクスッと笑ってしまう場面が多いのもディアオ・イーナン監督の手法なのかもしれない。たとえば警察の包囲網が狭まる中、チョウとアイアイがひなびた食堂で麺を食べるシーン。いつ立ち上がって逃げ出すことになってもおかしくない切迫した状況にもかかわらず、二人が麺の中に薬味(豆板醤?)をたっぷり入れようとする。あるいは事件が解決しようという時に捜査陣が記念写真を撮る場面。まさかという観客の“常識”を茶化していく。
もちろん結末を言うわけにはいかないが、強いて言えば「苦労は報われる」とだけ言っておこう。また最後の最後まで緊張感を途切れさせない見事な演出だとも。
『ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ』(ビー・ガン監督)に続き中国映画界に登場した本作。中国映画のレベルが経済力と同様にトップレベルに近づいていることを伺わせる作品と言えるだろう。ちなみに『ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ』で主演したホアン・ジュエが本作の後半で端役ながら賑わせている。
『鵞鳥湖の夜』は 9月25日より全国公開【紀平重成】