第765回「デニス・ホー ビカミング・ザ・ソング」
この日を待っていたのだ。香港ノワールの巨匠ジョニー・トー監督による経済金融サスペンス『奪命金』で運命に翻弄されていくヒロインをドラマチックに演じたデニス・ホー。その彼女の実人生を追ったドキュメンタリーが世界で初めて劇場公開に漕ぎ着けた。
本作ではパワフルなコンサート映像だけでなく、同性愛者であることを初めてカミングアウトし、「雨傘運動」にも参加して最前線で座り込みを続けるなど民主活動家へと変貌していく姿がスー・ウィリアムズ監督の長期密着取材によりリアルに捉えられている。
『奪命金』では金融商品担当行員として成績をあげるため、客にリスクの高い投資信託商品を売りつけてしまった彼女は後悔の念にとらわれながらじっと嵐が通り過ぎるのを待つという役回りだった。だが本作では香港ポップスのアイコンでもあった彼女が香港市民のアイデンティティと自由を守るために声を挙げる。運命を自ら切り開いたのだ。
発信力のあるデニスは当然のように当局からマークされる。2014年の「雨傘運動」では香港の中心街を占拠する学生たちを支持したことで逮捕され中国のブラックリストに入ってしまう。映画出演の声は掛からなくなり、スポンサーも離れていく。それならと小口スポンサーを300件集めて公演を成功させたりもした。
「デニスの物語はいびつな関係にある香港と中国の過去30年の情勢を見事に反映している」と説くウィリアムズ監督はこうも言う。「他の香港人と比べてデニスが際立つ点は10代の日々を過ごしたモントリオールの地で学び吸収した民主主義の原則とその価値観への揺るぎない信念だ。自由と民主主義のために戦う姿勢を公の場で表明する彼女の強さは、この固い信念があるからこそだ」
本作品は昨秋の東京フィルメックスで特別招待作品として上映された。上映後のQ&Aではプログラミングディレクター(当時)の市山尚三さんの「製作する過程で政治的な圧力はなかったか?」との質問に監督は次のように答えている。
「一緒に長年彼女と仕事をしてきた方、デニスのことをほとんど敬愛している方でさえ、話すのが怖いと口を閉ざします。音楽界であれ、映像界であれ、友人であれ、それは同じです。何故なら彼らは何らかの形で潜在的に中国に依存している部分があるので、異口同音にカメラの前では話せないと言わざるを得ないのです。中国の香港に対する抑圧のインパクトは計り知れないものがあります。否応なくそれを知らされました」
また「香港のデモ隊と警察の衝突シーンなど、危険な現場があったと思うが撮影チームが拘束されるような危険性はなかったか?」との市山さんの問いにこう答えた。
「そういうことはありませんでした。ただ私が香港に行けなかったときは現地チームに撮ってもらいました。香港では何が起きるか予測不可能で、香港の人たちでなければ分からない人々の動きや場所があったように思います。この映画が完成したのは彼らの献身的な協力のお陰。すべての方のお名前を挙げられたらいいですが、今は言うことができません。実はデニス自身も撮影に協力してくれました。冒頭、警察が彼女に迫ってくるシーンは彼女、そして彼女のアシスタント数人がスマホで撮った映像です。それらによって緊張感がより高まりました」
みんなの思いが集まって完成した本作品だが、地元の香港や中国では見ることが難しい。では映画を見た日本人は何ができるだろうか。「香港にも人権や民主主義を認めろ」と言っても「よその国や地域に口を出すな」と言われるのがオチだ。ならば自分の国を住みやすくすることだろう。人権が尊重され民主主義がキチンと機能していて真似をしたくなるほどに。
『デニス・ホー ビカミング・ザ・ソング』は6月5日よりシアター・イメージフォーラムほか全国順次公開【紀平重成】