第772回「瀑布」
チョン・モンホン監督の作品は長編第1作の『停車』以来欠かさず見るようにして来た。そのわけはラストの衝撃というか意外性に圧倒され、ゾクゾクする感覚を毎回楽しませてもらっているからである。
今年の東京フィルメックスで上映された本作品も同様で、期待にたがわぬ出来栄えだった。途中までは主人公母娘の重苦しい日常が描かれているのだが、後半に入ると万事が前向きに好転し始め、その心地良い変化に安堵していると、ようやくつかみ掛けた穏やかな状態は一時的にすぎず、新たな脅威が迫っていることに気付かされる。人は危機が近づいても気づかないのだという風に。それを見事に視覚化させたのがラストの上空からの圧倒的な映像だ。
本作で際立つのは脚本の面白さだった。舞台はコロナ禍が始まった直後の台北。高校生のシャオジン(ワン・ジン)は学校で座席の近い同級生が検査で陽性になったため学校側の指示で自宅での自己隔離を始める。一方キャリアウーマンの母親ピンウェン(アリッサ・チア)も会社から休職を求められる。両親の離婚以来、何かとギスギスしていた母娘関係は2人がマンションの一角に閉じ込められたことによって、いつ爆発してもおかしくない状況に。それでも我慢を重ねていくうちに、ある日緊張の糸はぷつんと切れる。
医師が娘に告げた母の病名は精神病性障害だった。うつ病や認知症といわれる人の中にも幻視を見る人はいて、症状が似ているので判定は難しい。映画でははっきり病名を出していないようだったが、ストレスが重なっての発病であることは間違いない。
唯一の収入源である母が職を失ったことで住宅ローンの支払いから家事代行のお手伝いさんへの給与もストップ。母に代わって家計のあれこれを心配をすることになったシャオジンだったが、退院後の母が料理中にボヤ騒ぎを起こしたため、責任感の強いシャオジンは事実上のヤングケアラーになるしかなかった。娘の生活態度に口やかましく小言を並べていた母娘の関係が逆転し、退院した母親の面倒を娘が見るという立場の入れ替えだ。もはやシャオジンは母に反抗するどころではなくなったのである。
この「立場の逆転」という構成は、前作の『ひとつの太陽』で絶望のどん底に追い込まれた一家がさらに予想もしない悲劇に次々と見舞れるのと同じ構成であることに気づかされる。また暗転の前に小春日和のように心安らかになるひと時を挿入することも監督はお気に入りのようだ。今作で言えば社会復帰を目指す母親のピンウェンがスーパーに仕事場を見つけた際に、彼女に好意を寄せた上司(チェン・イーウェン)が早々にデートを申し入れる場面である。「好きです」という思いを直球でど真ん中に投げ、それでいて下心丸出しのようないやらしさを感じさせない演技が光った。
監督は映画祭の公式カタログの中に「この映画は信頼について描きました」とのメッセージを寄せている。この言葉は、コロナ禍での安易な給与カットや人員削減施策等への警鐘のようにも感じられる。事実、社会では孤立した人たちの不満感が高じ、走行中の電車内で火を付けたり乗客を傷つけたりする事件が相次いでいる。国内のみならず世界各地で争いが絶えない現状では「信頼」を醸成することはそう簡単ではないだろう。だが、たとえ回り道になったとしても、まずは自分から「信頼」することを始める。その大切さを、スーパーの上司役であるチェン・イーウェンの眼差しと笑顔を思い出しながら考えた。
そのチェン・イーウェンはおよそスターらしくない風貌だが本職は監督で、しかも演技力抜群。その他『返校 言葉が消えた日』のワン・ジンが娘役を、『若葉のころ』のアリッサ・チアが母親役を演じ、良い味を出している。
日本公開の話はまだ聞いていないが、テーマがコロナ禍など現代社会と重なる上、作品の出来も素晴らしい。できれば全国公開、それが難しければどこかの配給さん・映画館でチョン・モンホン監督の特集をぜひともやっていただきたい。【紀平重成】