第769回「HHH:侯孝賢 デジタルリマスター版」
9月25日から全国順次公開される『HHH:侯孝賢 デジタルリマスター版』は、1997年にフランスのオリヴィエ・アサイヤス監督が友人であるホウ・シャオシェン監督の素顔に迫った伝説のドキュメンタリーだ。
80年代に台湾ニューシネマの担い手として活躍した朱天文(チュウ・ティェンウェン)や呉念真(ウー・ニェンチェン)ら若手映画人の頂点に君臨したのがホウ監督である。本作品の映像は以前にも見る機会があったが、そのたびに発見があり感動した。今回も同様である。アジア映画の巨匠と呼ばれるに至った監督の魅力の一端をご紹介したい。
台湾ニューシネマの旗手としてホウ・シャオシェン監督の存在を世界に知らしめたのは89年にベネチア国際映画祭で『悲情城市』がグランプリを獲得したからである。映画が制作されたのは38年続いた戒厳令が解除されてわずか2年後の89年。映画のテーマとなった二・二八事件(国民党による台湾人虐殺事件)を語ることはまだタブー視されていたのだ。
ホウ監督はオリヴィエ・アサイヤス監督に「虐げられてきた台湾人の尊厳を描こうとした」と制作の動機を語り、「誰も(二・二八事件を)描いていなかった。これは冒険だと思ったが怖くはなかった」と話す。その理由を「(実権を握る国民党に)批判的な態度をとるつもりはなく、客観的に事実を捉えるつもりだったから」と振り返る。このバランス感覚が監督の強みなのだろう。
アサイヤス監督から「あなたは自分をどこの監督だと思うか」と聞かれ、ホウ監督は「中国であることに間違いはない」と言いつつ「台湾人であることも変わりはない」と絶妙のコメントを返すところにもバランスをとろうとする彼ならではのセンスが伺える。映画にも出てくるが、監督の両親や祖母らの一家が国共内戦を経て大陸から逃れてきたが、そこは仮住まいで、いつか先祖の墓がある大陸に戻るつもりだったことはよく知られている。
映画ではこんなエピソードも紹介される。脚本家の朱天文に出会った監督は彼女から自分を客観視できる脚本の大切さを学んだという。朱はその後『風櫃の少年』『童年往事 時の流れ』『悲情城市』から最近作の『黒衣の刺客』までホウ監督の大半の作品の脚本を務めることになる。それは監督にとって、いかに彼女との出会いが映画を作る上で欠かせないエネルギーになっていったかを示している。
映画についてどん欲に学ぶようになった監督だが、次のようなエピソードも印象深い。ある日、朱天文の家を訪ねたホウ監督は自分の家と彼女の家との決定的な違いに気付くのだ。自分の家は親がいつでも台湾から故郷に帰るつもりでいたので家の中は落ち着きがなく雑然とした雰囲気なのに、(台湾生まれの)朱天文の家は長く住むことが前提なので物を大事に使い整然としていると両家の違いを感じたのである。
何気ない観察ではあるものの、周囲にアンテナを張り巡らせ感性を磨いたであろう監督の姿が浮かび上がるではないか。
さてホウ監督の並外れたバランス感覚をもう少し見ておこう。『悲情城市』を撮ると決めた理由について彼はこう話している。「もともと権力がシフトする政治の動きに興味があった。日本の占領下から国民党の接収に移り変わる時代に、ある家族の衰退を重ね合わせた。ちょうど既存の利益構造が変容し始めていると思った。台湾は運良く戒厳令が解除となり野党も力をつけて来た」と説明。作品がノーカットで公開することに成功したことについては「たかが映画ごときに(絶大な権力を持つ)国民党が(民衆の反発という)大きな代償を払うようなことをするわけがないと思った。それでも政府は2か所カットを要求してきたが、マスコミの総攻撃にあい内容に干渉できなかった」
ホウ・シャオシェン監督の保守でも革新でもなく事実にこだわった映画人としての姿勢と、その彼を支持した映画ファンの後押しが相まって『悲情城市』のノーカット公開という偉業が実現したと言えるだろう。
台湾には二・二八事件を描いた『悲情城市』やその後の白色テロ事件に焦点を当てた『クーリンチェ少年殺人事件』(エドワード・ヤン監督、91年)といった傑作があるが、その両監督に続いて同じ時代を描く監督は残念ながら長らく現れなかった。しかし2019年になってジョン・スー監督が『返校 言葉が消えた日』を発表。作り方はファンタジー・ホラーと異色ながら、暗黒の時代ともいわれる時代への関心も若い世代に高まりつつある。監督は「映画ごときに」と謙遜したが、映画だからこそ歴史から学ぶものも多いはず。後に続くクリエイターたちの奮闘を祈りたい。
『HHH:侯孝賢 デジタルリマスター版』は9月25日より新宿 K’s cinema ほか全国順次公開【紀平重成】