第403回 朝鮮の山と民芸を愛した「白磁の人」

「道~白磁の人~」の一場面。浅川巧(吉沢悠・左)はチョンリム(ペ・スビン)と友情をはぐくんでいく (C)2012「道~白磁の人~」フィルムパートナーズ(以下同じ)
林業技術者として日本統治時代に朝鮮の山の緑化に尽くした浅川巧(たくみ)。その半生を描いた「道~白磁の人~」が公開される。制作は日本だが、日韓双方のキャストとス
タッフが協力した韓国ロケは、故人が望んだ友好をまさに体現し、後世に希望を託す作品になったと言えそうだ。
監督は「TATTOO<刺青>あり」や「光の雨」「火火」の高橋伴明監督。合作映画にありがちなきれい事には終わらなかったのは、36年間に及ぶ日本の支配という歴史を
正面から描いているからだろう。

チョンリムは差別をしない浅川の対応にとまどうばかりだ
日本が韓国を併合してから4年後の1914年、浅川巧(吉沢悠)は荒れた朝鮮の山を緑に戻すという使命感を抱いて朝鮮半島の京城(ソウル)にやって来た。多くの日本人が
朝鮮人を差別するなか、浅川は林業試験場の同僚チョンリム(ペ・スビン)から朝鮮語を学び交流を深めていく。
1919年3月1日、独立を目指す朝鮮人の大規模な運動が発生し多数の犠牲者が出る。それでも林業技師として荒廃した山々を緑に戻すため、ともに歩き、語り合い、友情を
育んでいく2人。しかし一つの事件がきっかけで、チョンリムが抗日運動の容疑者として投獄される。

浅川はチョンリムの息子の1歳の誕生日に押しかけキムチの容器に白磁が使われていることに驚く
印象的なシーンがある。浅川巧が「日本人と朝鮮人が分かり合えるなんて見果てぬ夢なのだろうか」といつになく弱気になっていると、チョンリムが「例えどんなに無理な夢で
あったとしても、それに向かって行動することに意味があるのではないですか」と答えるところだ。
5月に早稲田大学大隈講堂で行われた特別試写会で高橋監督は「(夢に向かって行動することを)若い世代がやっている。その事にすごく意義があると思いました。日韓友好だ
けでなく、アジアの友好に必要なのは、相手を受け入れる心。あらゆる川は最終的に海に繋がってますよね。海は流れてくるものを拒まない。お互いが海になる事ですよね。相手
を理解する事は受け入れる事だと思います」と感想を述べている。
現実には相手を理解することも受け入れることもなかなかできないことが多いだけに、なおのこと示唆に富む言葉として響くのである。
浅川巧が40歳で病死すると、彼を慕って多くの朝鮮人が棺を担ぎにやってくる。朝鮮半島では葬式の衣装は白と決まっている。一方の日本人は黒と対照的だ。白と黒の喪服が
並ぶ行列は極めて珍しい。それも浅川巧だからこそ起こりえた現象である。
本来はコントラストが強すぎて、決して混じり合うことのない行列だが、浅川を弔うという同じ心で進む行列は見事に一体化しているように見える。自己を主張し合えば汚く見
える色も互いに尊重し合えば美しくなるとでも言うように。監督の演出の冴えを感じる場面である。

浅川は故郷の山梨県からみつえ(黒川智花)を妻に迎える
浅川巧の功績は林業にとどまらない。兄の伯教(のりたか)から紹介された美術評論家の柳宗悦と意気投合し、白磁をはじめとする民衆の手による工芸品を収集する朝鮮民族美
術館設立に貢献する。同時に民衆の手による工芸品こそ大事にするというこの考え方はその後の柳宗悦の民芸運動にもつながっていく。
戦後日本人が引き揚げた後、荒れていたソウルの墓に代わって66年、林業試験場のかつての仲間たちが新しい墓を立てている。さらに86年には同じく職員一同の名で「韓国
の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人、ここに韓国の土となる」と刻まれた記念碑が建てられている。墓はこの墓地では唯一韓国人の手で守られている日本人の墓と
いう。

独立運動の高揚に思わぬ波紋が広がる
戦後は反目しあうことの方が多かった日韓の関係。それでも一度まかれた友好の種は着実に芽となり枝を伸ばしていると言えるだろう。浅川巧がチョンリムと一緒に植えた朝鮮
五葉松の苗と同じように。
ちなみに作品自体もKOFIC(韓国映画振興委員会)の支援を受ける初の外国映画という栄誉を受けている。
「道~白磁の人~」は6月9日より新宿バルト9、有楽町スバル座ほか全国公開【紀平重成】
【関連リンク】
「道~白磁の人~」の公式サイト
http://hakujinohito.com/index.html