第418回 「桃(タオ)さんのしあわせ」

桃さん(ディニー・イップ=左)はロジャー(アンディ・ラウ)と実の母子のような関係を作っていく (c) Bona Entertainment Co. Ltd.,(以下同じ)
“老い”をこんなに長く、リアルに、そして優しく描き続ける監督がいたであろうか。95年の「女人、四十。」で老いの問題を無残さも含め赤裸々に描いたアン・ホイ監督は、その後「男人四十」「おばさんのポストモダン生活」「生きていく日々」と立て続けに傑作を世に送り出す。その路線の一つの到達点として今作はある。それは“高み”と呼んでいいほどに味わい深い。

ロジャーにとって桃さんはそこにいるのが当然という関係だったが……
桃(タオ)さん(ディニー・イップ)は香港の裕福な家庭で、少女のころから60年間、家政婦として働いてきた。現在は香港に一人残り映画プロデューサーとして実績をあげている長男のロジャー(アンディ・ラウ)の世話をしている。桃さんはある日脳卒中で倒れる。ロジャーは、その時初めて桃さんの大切さに気づき、彼女の介護に奔走する。

やり手の映画プロデューサーであるロジャーは中国のスポンサー相手に一芝居を打ち、出資金の積み上げに成功する。作戦成就をサモ・ハン(左)とツイ・ハーク(右)で祝う3人
作品の魅力は老いの現実を余すところなく描写している点だ。幸い数日で退院はできたものの、医者からは腕や足がマヒする後遺症が残るだろうと言われる。仕事を辞めるという桃さんのためにロジャーは老人ホームを探すが、法外な費用に驚かされる。
ようやく見つけたホームで、桃さんは厳しい現実を目の当たりにする。ロビーでぼんやりと座っているお年寄りたち。夕食時間には横一列に並んだ介助の必要な入居者に、スタッフが椅子をスライドさせながら次々と口に食べ物を運ぶ。よく眠れず消灯後に杖をついてトイレに行った桃さんはあまりの汚さに顔をしかめる。
そうかと思うとユーモアあふれるシーンも多い。映画制作の資金繰りがうまくいかないので、ロジャーがスポンサーの前で2人の映画監督(ツイ・ハーク、サモ・ハン)とひと芝居を打つ。作戦は成功しスポンサーは資金の上積みを約束する。

桃さんが食べやすいように優しく気を遣うロジャー
また大口の口座開設者として顔見知りの銀行幹部に預金の出入りについて不審点を指摘して是正を約束させた帰り、出入りの工事関係者と同じ服装だったため、勘違いした行員から呼び止められるシーンもある。
この作品自体が中国のプロデューサーの手で制作されているので、ひと芝居を打つ話を入れたことは大胆そのものといえる。中国の資本が無ければ映画製作がままならぬ現状を描き出すと共に、香港映画人の気概をも見せている。また後者は服装で人を見る社会を茶化し、笑いで皮肉る。こういう映画の本筋とは無関係の豊穣なエピソードが作品を一段と魅力的にしている。

古き良き時代の使用人としての矜持を見せる桃さん
11年ぶりにスクリーンに復帰したディニー・イップは「秋菊の物語」のコン・リー以来という中華圏2人目のベネチア国際映画祭主演女優賞に輝いた。65歳という実年齢からは想像もつかない老け役は見事と言うしかない。
またアンディ・ラウが実の母と息子以上の絆で結ばれていく姿を好演している。老後の生活には何が欠かせないか。それは人の気配であり温もりであるということを考えさせてくれる。
このほか前述のツイ・ハークやサモ・ハン、さらにアンソニー・ウォン、チャップマン・トー、レイモンド・チョウらの香港映画人が大挙して出演しているのもうれしい。香港という街と香港映画への限りない愛に満ちているように感じた。
その香港映画は、いま大陸の資本と組むケースが増え、純粋の香港映画は減りつつある。アン・ホイ監督は映画のパンフレットで「この映画で興味を持ったのは加齢。私自身も年をとっていってますし、それを受け入れるようになりました」と話している。この作品で監督は自分自身の老いと香港映画の変質という二つの変化を見つめ、失われつつあるものへの哀惜の念を表した、と言えないだろうか。そう思えば映画の中で描かれる人々への目線は限りなく温かいことに思い至るのである。
「女人、四十。」から17年。アン・ホイ監督はますますリアルに、そして温かい目で人々を描く視線に磨きをかけようとしている。
「桃さんのしあわせ」は10月13日よりBunkamuraル・シネマほか全国順次公開。【紀平重成】
【関連リンク】
「桃さんのしあわせ」の公式サイト
http://taosan.net/