第451回 「グランド・マスター」

「グランド・マスター」の映像美を象徴するカット (c) 2013 Block 2 Pictures Inc. All rights Reserved.(以下同じ)
同じ作品の試写を2度も見に行ったのは久しぶりだ。そうしないではいられない艶やかで濃密な気配がスクリーンから匂い立っていた。
構想から17年。待ちに待った王家衛(ウォン・カーウァイ)監督の初めてのカンフー映画が満を持して日本公開される。

葉問(トニー・レオン)と妻(ソン・ヘギョ)は仲睦まじく暮らしていたが、時代はそれを許さない
ブルース・リーの師匠としてあまりにも有名な葉問(イップ・マン)の一代記を描く作品としては、他の監督に次々と先を越されてしまったが、こだわりの映像美と格調高い会話によって、全く新しいカンフー映画を世に送り出したのである。
物語は1936年の広東省佛山を舞台に始まる。この時葉問は43歳。映画冒頭のプロローグで「40歳までが私の春の時代だった」と彼に言わせる。つまりこの作品は壮年期に入った葉問を描こうとしている。

流派の誇りを取り戻そうと宮若梅(チャン・ツィイー=前列右)は葉問(トニー・レオン=同左)に闘いを迫る
若葉のようにどんどん成長して見た目も元気な青年期ではなく、体力に物を言わせて豪快な技を繰り出す代わりに、無駄のない落ち着いた、しかし着実な技を意のままに使いこなす壮年期を描こうとしたのはなぜだろうか。
おそらく監督は、この作品を通じて20世紀という多難な時代を生きるしかなかった中華民族の心を描こうとしたのではないか。心を描くとなれば、葉問が成長して心身ともに充実ぶりを示すこの時代にならざるを得なかったといえるだろう。
だからこそ、この映画では外国人相手に暴れまわるヒーローは出てこない。ひたすら高みを目指す求道の士がいるだけである。

流派の誇りを取り戻そうと宮若梅(チャン・ツィイー=前列右)は葉問(トニー・レオン=同左)に闘いを迫る
その象徴的なシーンがある。中国の北の流派を極めた宮宝森(ゴン・パオセン)は自身の引退試合を南の佛山で開き、自分に勝った男に真のグランド・マスターの称号を与え、武術界における南北統一の使命を任せようとする。
南の代表として送り込まれた詠春拳の宗師・葉問(トニー・レオン)に対し、宮宝森は手の中の餅(モチ)を示し、「割ることができるか」と尋ねる。これを見事に割って見せた葉問は宮宝森に「あなたにとって餅すなわち天下は、私にとって武術界ではなく世界だ」と答える。葉問の完勝だった。それも技ではなく、強い精神、心の勝利と言えるだろう。
この場面を始め、強く印象に残る闘いのシーンが次々と登場する。冒頭の降りしきる雨の中、葉問が大勢の男たちをなぎ倒す闘いも詩的に美しいが、父親の負けを取り返そうと葉問に果たし合いを申し入れる娘の宮若梅(ゴン・ルオメイ=チャン・ツィイー)との一騎打ちは、宙を舞いつつ顔が触れんばかりに接近する一瞬をスローモーションでとらえ、あまりの官能美に、その後の2人の関係を予測してしまうのである。
しかし最も美しい闘いは後半、香港に共に移住した宮若梅から葉問に明かされる10年前の40年大みそか、雪舞う奉天駅での復讐劇。一番弟子のマーサン(マックス・チャン)に父を殺された宮若梅が婚約を破棄してまで待ち望んでいたチャンスがやってくる。

凍てつくホームでの復讐劇は映画史上に残る美しさ
凍てつくホームでマーサンの姿を見つけた宮若梅は奥義六十四手で互角に戦うが、ジリジリとホームの端に追い詰められ、動き出した列車に触れんばかりとなる。見る側も力の入る場面だが、その一方で轟音を上げながら駆け抜けていく列車の美しさといったら。レールのつなぎ目を車輪が通過する際に発する軽快な連続音が、闘いをいやが上にも盛り上げる効果音となり、もはや陶酔状態に。恐るべし、ウォン・カーウァイ監督。
映画が公開されるまでは「撮影に時間がかかりすぎる」、そして公開後は「様式美にこだわり過ぎる」。このような批判は、おそらく多いことだろう。しかし、そんなセリフはいくらでも言わせておこう。カンフーを通じて中華民族の心に宿る人生観や美学をかくも美しく凝縮して見せてくれただけで、もう十分に満足である。
余談だが香港の街を葉問と宮若梅が並んで歩く後ろ姿のカットは同じトニー・レオンとマギー・チャン演じる男女が登場する「花様年華」を彷彿とさせるし、梅林茂の音楽も同作品を思い出させる。ウォン・カーウァイ監督の50、60年代へのこだわりは相当のものなのだろう。
そして、もう一言。我らが台湾の張震(チャン・チェン)にも言及しないわけにはいかない。国民党の特務機関にいたカミソリ役を演じる張震の技の冴えとパワー、さらに押し出しの良さは、葉問の若かりしころに相当する。中華圏を代表するトップ俳優と言って過言ではない。
「グランド・マスター」は5月31日よりTOHOシネマズ 日劇ほか全国公開【紀平重成】
【関連リンク】
「グランド・マスター」の公式サイト
http://grandmaster.gaga.ne.jp/