第457回 「しわ」

「しわ」の一場面 (c)2011 Perro Verde Films – Cromosoma, S.A. (以下同じ)
認知症の人が出てくる映画やドラマは増えているが、認知症になった人の目線でここまでリアルに描いた作品はきわめて珍しい。しかもテーマは重いのに深刻なままでは終わっていないところが、また素晴らしい。アニメーションの可能性を広げた作品の魅力を追うと……。
原作はパコ・ロカの「皺(しわ)」(日本版は小学館集英社プロダクション刊)。発売と同時に話題になり、イグナシオ・フェレーラス監督がコミックの枠を越える作品の社会性に着目しアニメでの映画化を企画した。監督が仕事をしているデンマークを足場にインターネットを通じて国際チームを作った時点で、作品の普遍性とともに、映画が世界各国で広く受け入れられる下地が育まれていたと言えるかもしれない。

プールもある立派な養護老人施設だが、塀に囲まれ外に出ることはできない
まず冒頭シーンで観客は認知症に得体のしれない怖さを感じさせられる。
銀行の支店長エミリオは若い夫婦への融資話を厳粛な面持ちで断る。その理由を述べ始めた時、若い夫が立ち上がり「やめろ!もう耐えられない。うんざりだ。父さん、ここは銀行じゃない。とっくに辞めている。さっさとスープを飲んでくれ」。息子のものすごい剣幕に「なんだって?」とつぶやく元支店長。いつの間にか髪は白くなり、顔にはしわが刻まれる。

子供が小さかったころの家族写真を飾るエミリオ(手前)と同室のミゲル
養護老人施設に預けられたエミリオの同室は、お金に抜け目のないミゲルだ。彼の案内で施設内を回ると、外観はプールまで備えた立派な設備だが、自分の言葉を忘れ他人の言葉をオウム返しにしか話せない元DJのラモン、実家に連絡するため施設内で電話を探し続けるソル、面会に来る孫のためにバターや紅茶を貯め込むアントニア、アルツハイマーの夫モデストの世話を焼く妻ドローレスらがいて、それぞれ事情を抱えていることが分かる。
少しずつ生活に慣れてくるエミリオだが、ある日ベッド脇のテーブルに置いた財布や時計が無くなる。エミリオは同室のミゲルを疑うが、「その辺にあるだろ」と彼は取り合わない。運動の時間に今度はボールを認識できなくなる。そして久しぶりに訪ねてきた孫たちを迎えようとロビーに出てきた時、エミリオは背広の上にセーターを着ていて注意される。しかも孫の顔に見覚えはない。

談話室でくつろぐお年寄り
徐々に進行する認知症の描写がリアルである。たしかに気が滅入る。将来自分もそうなったら楽しくないし、家族にも迷惑をかけるだろうと落ち込む。しかし、作品は現実を正確に描く一方で、そんな生活の中にも小さな笑いを織り込み、温かな気持ちにさせてくれる。そして悲惨なままでは終わらないある感動的なエピソードを用意している。
一つはある出来事からエミリオが自分のアルツハイマーを確信してしまい、ショックを受ける様子を見て、現実主義者のミゲルに訪れた変化とは。
もう一つは夫のモデストの世話を焼く妻ドローレスが、夫の耳に毎回何かささやく。すると認知症で何も分からないと思われた夫がかすかにほほ笑む。妻はいつも何をささやいているのだろうか。

オリエント急行でキセルを片手にくつろぐ貴婦人は……?
とくに後者の方は、認知症になっても初期の段階では脳の機能の95%は正常であり、症状が進んでも感情の部分はしっかり残っているという医学的なポイントも抑えており、よく練られた脚本であることが分かる。それが、作品に重みをもたせてもいる。
それも大事な要素だが、作品として成功しているのは、実写ではなくアニメーションだったことが大きい。認知症の人を描いた作品は実写であれば、どうしてもしわの濃さや目力の衰え、表情のなさなどに目が行ってしまい、枯れた味や優しさ、落ち着きといったプラス面を見えにくくする心配がある。それがアニメーションだと、老いの厳しさに惑わされることなく老いのプラス面をしっかり見させ、さらに彼らの悲しみ、焦燥、苛立ち、誇りといったものまで素直に直視させる。つまり登場人物に寄り添い、彼らと同じ気持ちになって見ることができるようになる。アニメの力であろう。
1972年生まれのフェレーラス監督は幼い時からスペインで「アルプスの少女ハイジ」など日本のアニメーションを見て育ったという。高畑勲監督の生徒を自認するフェレーラス監督は、今度の日本公開で“恩返し”を果たしたことになる。これも実写以上に浸透性の高いアニメーションならではの力と言える。
「しわ」は6月22日より新宿バルト9ほか全国順次公開【紀平重成】
【関連リンク】
「しわ」の公式サイト
http://www.ghibli-museum.jp/shiwa/