第479回 「パリ、ただよう花」

「パリ、ただよう花」の一場面
この一作で5年間の中国国内での映画製作禁止処分が解かれたロウ・イエ監督。その記念すべき作品の第一印象はいささか重苦しいものだった。なぜパリが舞台? どうして心がこうもささくれだつ内容じゃないといけなかったのと。しかし徐々に心のうちに頭をもたげてきたのは現代都市住民の寂しき心を描かないではいられない監督の執念への敬意である。

偶然知り合った マチュー(タハール・ラヒム=左)とホア(コリーヌ・ヤン)は意気投合し食事をする
主題は「愛」。北京からパリにやってきた教師のホア(コリーヌ・ヤン)は、かつての恋人やフランスで新たに出会った人々の間を漂う。そんなある日、建設工のマチュー(タハール・ラヒム)と出会い互いに好意を抱いた二人は、やがてむさぼるように体を求め合う仲となる。

マチューは激しくホアの体を求めるが……
その二人の愛と葛藤が赤裸々に描かれていくのだが、その過程で異なる人種や文化、暴力と優しさ等々、愛を巡る様々な感情や道徳観までもが露呈してくる。愛とは体が発する“言語”で理屈を超えているのに、それだけでは終わらない。

ホアのことでもめるマチュー(左)と仲間たち
映画では二人が激しく愛の炎を燃やし尽くす姿だけでなく、男による理不尽な仕打ちをも描いていく。その一方で感情の揺れに苦しむ男に手を差し延べもするのだ。そんな彼女の振幅の大きい感情の揺れを理屈ではなかなか理解することが難しい。
むしろ感情の有り様をストレートに伝えているのは、ペイマン・ヤザニアンによる音楽で、それ自体がまるで息づいているように素晴らしい。またユー・リクウァイによる映像も、導入部分のみぞれのような冷たい雨に濡れそびれたパリの描写が、これからを暗示するかのように心を冷え冷えとさせる。熱い感情の爆発はあってもそれは一時で、主人公たちの心象風景のように常にささくれだち、心を休めることができない。
監督は「ふたりの人魚」や「天安門、恋人たち」「スプリング・フィーバー」と舞台は変わっても常に愛と孤独をテーマに描いてきたと言えるだろう。孤独な現代人。誰にもその陰はあるが、とりわけパリの異邦人にとってはより陰影が濃く見える。

こんなに好きなのに、どうしても分かり合えない部分がある
原作は、北京出身でフランス在住の作家リウ・ジエが自身の体験をもとに、インターネット上で発表した小説「裸」。主人公たちの孤独は原作者の孤独と重なる。ホアは中国人だし、マチューもおそらく移民の子で満足な教育も受けていないのだろう。ホアがマチューの強引な誘いに応じるのも、異邦人ゆえの寂しさがそうさせたのだろう。
たとえ美しくはあっても、昔も今も異邦人には寂しい街パリ、おそらく今の東京も同じだ。パリで漂ったホア(花)。花は根を下ろさなければ美しい花びらを咲かせることはできない。ホアはどこに花を咲かせるのだろう。
ホアが北京で教職につくことを考えた時、元カレは冗談めかしてこう宣言する。「あなたのような才能を持つ中国人が中国で職を得ることは祖国にとって多大な貢献を果たすことになる」。中国人特有の演説口調。まるで中国人なら祖国に貢献するのが当然だろうと言っているようで、実はそんな中国を、とりわけ共産党政権を揶揄しているようにも見える。5年間の映画制作禁止処分を受けた監督のささやかな抵抗で、鬱憤を晴らしていると思うのは、うがちすぎだろうか。
「パリ、ただよう花」は12月21日より渋谷アップリンク、新宿K’sシネマほか全国順次公開【紀平重成】
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「パリ、ただよう花」の公式サイト
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