第495回 「中国・日本 わたしの国」
このところ日中両国の今後を考える上で注目したい作品が相次いで日本公開され始めている。本コラムの第492回で紹介した劇映画「黒四角」とドキュメンタリーの今作品である。国と国の体面がぶつかり合う国際政治の関係修復には時間がかかるが、映画や小説などの文化交流は、「楽しみたい」「学びたい」という自然な思いが前面に出てくるので、すぐ対応できるし息の長いお付き合いにもうってつけである。
このドキュメンタリーの主人公は東京都内の女性タクシードライバー、山田静さん(59)。中国人の父と日本人の母の間に生まれ、母の祖国日本に来て22年になる中国残留2世だ。
下町の駅前タクシー乗り場で同僚の男性たちと談笑する姿は堂々たるもの。中国で2回、日本に来て1回離婚し、1人で異母兄妹4人を育て上げた肝っ玉母さんだ。笑顔を絶やさず弱音は吐かない。唯一考え込んだのは、少しでも稼ごうと夜勤中心のシフトで働き続けた挙句の腎臓の手術だった。「長く大連の母の墓を訪ねていないから、母が怒ったのでは」。2011年、娘(21歳=当時)と下の息子(15歳=同)を連れての里帰りにカメラも同行し、彼女の半生、とりわけ強い性格を得ることになった生い立ちを追う旅が始まる。
静さんは1954年に大連で生まれた。母方の祖父は旧満州で通信技師をしていたため、日本の敗戦後も技術継承の名のもとに中国に留められ、大連で生まれ育った母の山口章子は中国人と結婚する。その相手が今も大連に住む父である。
日本人の血を引く静さんはよくいじめられた。持ち物を盗まれたり追いかけられたり。「大人より子供の方がひどかった」。そのたびに泣く“弱虫”の静さんが変わったのは文化大革命の嵐が始まって4年目の70年。母が働いていた病院の仕事を手伝っていた時に、病院内で「毛沢東主席打倒」という小さな落書きが見つかった。犯人として当時16歳の彼女が疑われる。隔離審査は3カ月続き、「母親の指図」であることを自供するよう執拗に迫られた。身に覚えもないのに母まで道連れにはできないと頑張ったことで強くなったと振り返る。
静さんが父に尋ねる。「だれが一番母に似ていた?」。父が即座に答える。「お前だ。金遣いが一番荒い。でもそれは自分のためではなく家族のためであり、気前がいい」
墓参りを済ませ、旧正月を祝うと、上海にも足を延ばした。そこには別れた2番目の元夫と義理の父らの親戚がいる。ここで一悶着が起きた。元の夫の家には娘が小さいころの家族の写真が一杯残っている。それを持ち帰ろうとする娘と父親の間で口論が始まったのだ。「お母さんそっくり」と父親。「まだ未練があるの?」と娘。硬い表情で見つめる静さん。
元夫には冷たい静さんだが、入院中だった義父を見舞い「100歳まで生きてよ」と励ますと、義父は満面に笑みを浮かべ、再会を喜んだ。
この上海時代に内装の会社を起業し、それが当たって家族に会えるのは月に一度という生活が始まる。仕事も大事だが家族との生活も大切にしたい静さんは、母の祖国に移住することを決意し91年に家族と共に来日。大連のテープレコーダー工場で働いていた時代の仲間が久しぶりの再会を祝う円卓で、「あなたが中国に残っていたら大会社の社長になっていただろう」とスピーチし、静さんも笑うしかなかった。
4人の子供は今全員日本に住む。末っ子が高校に入り「親としての責任は半分以上果たしました。これからは自分のために働きたい」と語る。
彼女の60年の人生は日中関係の激変と歩みをそろえるかのように波乱万丈である。しかし笑みを絶やさずこう語るのだ。
「私は半分中国人で半分日本人。どちらも私の国です。国籍は関係ない。仲良くしてほしいのです」
そのために観光会社を作って日中友好のために頑張るという。何でも思う通りにやってきた静さんのことである。夢が実現することを祈りたい。
「中国・日本 わたしの国」(ちと瀬千比呂監督)は6月21日よりユーロスペースほか全国順次公開【紀平重成】
【関連リンク】
「中国・日本 わたしの国」の公式サイト
http://china-japan-mycountry.com/