第496回 「罪の手ざわり」
ジャ・ジャンクー監督の最新作は京劇の世界を逍遥し、キン・フー(胡金銓)監督の「侠女」にオマージュを捧げた、暴力について深く考察する作品だ。
映画は四つの物語で構成されていて、それぞれ実在のモデルがいるという。中国は急速な経済発展で格差が広がり、人々の間では不満が募っている。その不満を一気に解消するかのように殺人など暴力に訴える事件も多発している。
中国版ツイッターの微博(ウェイボー)を始め中国社会では人々のコミュニケーション手段が格段に進歩しており、四つの物語も本来はバラバラな事件がどこかでつながる構成を考えたという。
それがうまく効いている。不満の解消に真摯に向き合わないと、人々の怨念が結びつき、やがて大きなうねりとなって奔流し始めるかもしれないという“警告”のようにも見える。もともと「水滸伝」など武侠小説やそれを題材にした演劇は庶民の不満のはけ口として支持されてきた歴史がある。抑圧や不正に人々が立ち向かうというその様式を脚本に取り入れた監督の狙いは当たり、作品にリズムと力を与え、かつてないパワフルな作品に仕上がったと言える。
ジャ・ジャンクー監督にとって、本作は「長江哀歌」以来7年ぶりの長編劇映画。山西省、重慶、湖北省、広東省でこの10年前後に、実際に起きた4つの事件から着想を得て、激変する中国社会に翻弄されながらも懸命に生きる人々に焦点を当てた作品だ。
ダーハイ(チァン・ウー)は山西省の炭鉱夫。村の共同所有だった炭鉱が同級生の実業家ジャオに独占され、村長は彼から賄賂をもらっていると疑う。ダーハイは「お前を訴えてやる」とジャオに伝えたが、逆に彼の手下から暴行される。
重慶に妻子を残し出稼ぎに出たチョウ(ワン・バオチャン)が正月に帰省した。出稼ぎと言いながら毎回大金を振り込んでくる夫を怪しみ、妻は夫のデイパックを開け、銃の弾倉を見てしまう。
妻子ある男と密会を重ねたシャオユー(チャオ・タオ)は湖北省にある勤め先の風俗サウナに戻る。受付係の仕事を終え洗濯をしていると、男二人が「マッサージしろ」と部屋に入ってくる。断るシャオユーに男たちは執拗に迫る。
広東省東莞のナイトクラブで働く青年シャオホイ(ルオ・ランシャン)は、しっかり者のホステス、リェンロン(リー・モン)に恋心を抱く。その彼女から思いがけない話を聞いてシャオホイは……。
普通の庶民が人間の尊厳を損なわれるような困難に直面した時、思いもかけないバイオレンスの衝動に駆られることはある。元になった事件にもそのような要素があったのだろう。そして目に見えない暴力を受けていたのは、むしろ彼らの方だったかもしれない。監督はそう言いた気である。
ところで、ジャ・ジャンクー監督はこの数年、実在の人にカメラを向けたセミドキュメンタリーの手法にこだわってきた。しかし今作では再びフィクションに軸足を移し、結果的に抑圧に立ち向かう個人という政治的批評性の強いテーマを鮮明にすることに成功したのではないだろうか。
フィクションからドキュメンタリー、そしてまたフィクションという歩みは、ドキュメンタリーのワン・ビン監督が「無言歌」で劇映画を撮り、「三姉妹~雲南の子」以降、再びドキュメンタリー路線に戻ったのと好対照をなしている。現時点で振り返れば、どちらの監督も慣れ親しんだ手法から一度離れた結果、本来の得意なジャンルに磨きがかかり、映画作りが大胆になっているように見える。
この二人からは今後も目が離せない。
さて、ジャ・ジャンクー監督の新作はこれまでにないほどの豪華俳優陣である。「活きる」「こころの湯」のチァン・ウー、「ロスト・イン・タイランド」のワン・バオチャン、ジャ・ジャンクー監督作品のミューズ的存在のチャオ・タオ、「長江哀歌」などジャ・ジャンクー作品の常連、ハン・サンミンやワン・ホンウェイら俳優陣の競演を見るだけでも楽しめる。
個人的には名コンビだったチャオ・タオ相手に風俗サウナのいやらしい客を好演したワン・ホンウェイと広東省のナイトクラブで働くホステスを魅力的に演じたリー・モンが光っていたように思う。監督のキャスティングセンスにも毎回感心している。
「罪の手ざわり」(原題「天注定」)は5月31日よりBunkamuraル・シネマほか全国順次公開【紀平重成】
【関連リンク】
「罪の手ざわり」の公式サイト
http://www.bitters.co.jp/tumi/