第525回 「パーソナル・ソング」
うつろな目で空気が抜けたように座っていた老人が、耳にヘッドホンを当てられ音楽を聞いた途端に目が生き生きとし、背筋がピンとしただけでなく体を揺らし歌い出したら、あなたは自分の目を信じることができるだろうか。
この作品は奇跡のような映像を通じて、音楽が脳に与える影響を感動的に描いたドキュメンタリー映画だ。
正直言えば、作品の感想は今でも半信半疑といったところだ。もともと認知症とは無縁の人に演技をさせているのではないか、あるいは都合のいい映像だけ集めただけではないかと。しかし、次々と音楽に反応し歓喜の表情を浮かべる人たちを見ていくと、そんな作為ではなし得ない事実の力を感じないわけにはいかなかったことも事実だ。
マイケル・ロサト=ベネット監督にもインタビューしたので、彼の話を聞こう。
「自分がどこにいるのか分からない人たち、端から見ると死んでいるのも同然の人たちが実は音楽を求めていたことすらこれまでは分からなかった。そんな彼らに音楽を聴かせると、反応して感情が出てくるんです。感情を出す能力は全然衰えてなく、音楽を好きになる能力も衰えていなかった。これほど大きな喜びを与えられるということは、そうそうはないので、すごい体験をしたと思います」
映画を作るきっかけになったのは3年前、アメリカの老人ホームや病院で音楽活動をするNPO団体を設立したダン・コーエンと監督が出会ったことだ。ダンの紹介で監督は94歳の認知症患者ヘンリーに会う。彼のお気に入りの曲が入ったiPodからヘッドホンを通じて音楽が流れて来ると彼の表情は一変し、立ち上がって指揮者のように振る舞い出した。冒頭で紹介したのは、このヘンリーが見せた奇跡のシーンである。1日だけの撮影のつもりが3年にも及ぶ長い撮影取材に変わる旅の始まりだった。
音楽療法が認知症にも有効であるという考え方は日本でも介護施設に広く伝わっており、集団による歌唱指導などが積極的に行われている。しかし映画で紹介されているのはiPodに選曲されたお気に入りの曲がヘッドホンからダイレクトに流れて来るという極めて個人色の強い音楽療法である。
映画にも登場しているオリバー・サックス博士の所属する音楽神経機能研究所(IMNF)が10カ月にわたる実験を行ったところ、認知症のグループには1週間に3回音楽を聴かせ、逆に音楽を聴かせないグループと比べると、明らかに認知症のレベルに差が見られたという。
「認知症の初期・中期・後期のいずれの段階でも音楽を聴く能力の存在は確かに認められる結果が出ています。ただし、後期の一番最後、本当に最後の最後の段階になると音楽を聴く力というのは失われてしまうことが分かりましたが、ほぼ全ての時期で音楽は効果があった」
では聴く回数を増やせばさらに効果は上がるのだろうか?
「効果の違いを、今質問されたような『週何回増やしたらどうなる』といった、音楽の効き目を薬の効き目のようなシステムで測る考え方には陥りたくないのです。薬を処方するという感覚で音楽を処方するというよりは、もっと普通の人間の体験として音楽を楽しむというかたちでないと意味はないでしょう。人を人として、全人格として認めた上で音楽も扱っていくという風に転換していかないとダメだと思います」
ダン・コーエンの活動や映像の衝撃はアメリカで広く知られるところとなり、ファンドを使った支援活動や映画祭での受賞という形で広がりつつある。課題はiPodやその人に合った曲をリストアップするアプリの普及という。
「認知症の薬のマーケティング予算よりiPodを必要としている人すべての人に1台ずつ届ける方が半分の金額で済む。この方が安上がりです」
世界的なアーティストであるビーチボーイズやポール・マッカトニーが「認知症治療という目的であれば音楽をあげるよ」と言ってくれたという。
この作品をもっと多くの人が見て、医療や介護の現場で、たとえば音楽を聴いて何度目に効果が出たのか、時間はどの程度かけるのか、認知症の種類によって影響の違いはあるのかなど科学の目でさらにデータを積み上げていくことを期待したい。
「パーソナル・ソング」は12月6日よりシアター・イメージフォーラムほか全国順次公開【紀平重成】
【関連リンク】
「パーソナル・ソング」の公式サイト
http://personal-song.com/