第548回「サイの季節」

「サイの季節」の一場面
たとえ最近映画を撮っていなくても、映画監督は生きている限り映画監督だ。だから100歳になっても、認知症を患っていても映画を撮りたければ撮る。どんな状況下でも映画を作らないではいられず、困難な状況をプラスに変える才覚と強い精神力を持っているのが映画監督と言えるだろう。
故国イランを離れ、亡命先のトルコで本作を撮ったバフマン・ゴバディ監督もその一人である。許可を得ないで2009年に「ペルシャ猫を誰も知らない」を撮った彼は、自由に映画を撮れる環境を求めて故国を去る。その代償は大きかったようだ。故郷を失った喪失感と孤独にさいなまれたというのだから。

仲睦まじいサヘル(カネル・シンドルク=左)とミナ(モニカ・ベルッチ)をねたむアクバル(ユルマズ・エルドガン=右)だったが……
「私が感じたプレッシャーや混乱した感覚は、自分を麻痺させ圧倒するものでしたが、だからこそ、それを自分が表現しなければならないと思ったわけです」(プレス資料より)と本作を撮った動機を語る。「この映画によって、とにかく生き延びようとしたのです」とも。文字通り自身の境遇に重ね、命を懸けた作品だということがわかる。

外の様子をうかがうミナ
映画と放送。メディアは違うが、「政府が右と言うことを左と言うわけにはいかない」と言い放つどこかの放送人トップとはポリシーも腰のすえ方も大違いということだろう。
イスラム革命の動乱期に、半革命的な詩を発表したとして投獄されたクルド人詩人サヘル(ベヘルーズ・ヴォスギー)。彼の帰りを待ち続けた妻ミナ(モニカ・ベルッチ)は、夫が獄中で死亡したと聞いて新たな生活を始める。一方、実は生きていたサヘルは30年の獄中生活を経てついに自由の身となり、妻の行方を探し出すが……。2012年・第13回東京フィルメックスのクロージング作品として上映されたことは記憶に新しい。

幽閉されたサヘルはミナとの再会を願う
もともと定評のあったゴバディ監督の構成力と映像美は、故国を離れざるを得なかった自身の厳しい体験から力を得たかのように化学反応を起こし、自由奔放とでも言うような大胆な手法を手に入れる。
牢獄に囚われたサヘルのいる場所に黒い物体がボトボト落ち始め、よく見るとそれは亀。そうかと思うと、車の運転席で呆然としているサヘルを、近づいてきた馬が首を突っ込んで凝視する。あるいは、乾いた大地を疾走する車の前に突然現れるサイの群れ……。

老いたサヘル(ベヘルーズ・ヴォスギー)は“死んだ夫”。妻に会いたくても会うことができない
最初は驚いても、気がつけば何とも収まりがよく、サヘルの心の内をこれほどありのままに表す映像はないとすら思わせる。唐突でいて斬新。サヘルの何も読み取れない空虚な目の奥に、静かだが確かに燃えたぎる炎を感じ取ることができる。それは監督自身の思いであったに違いない。
物語では愛し合う若い夫婦の人生を狂わす使用人の運転手が登場する。政治的うねりの中で体制が入れ替わる混乱を利用しての反道徳的行為の数々。一時的な満足は得られても、彼もまた人生で多くのものを失うことになる。それを監督は冷徹な目線で追っていく。

見つめ合うかのようにたたずむ老いたサヘルと馬
イランには麻生久美子も主演した「ハーフェズ ペルシャの詩」にも出てくるように優れた詩が多いと聞くが、本作でも詩はサヘルや妻ミナの心象風景と重なる。重い主題が詩と映像を通じて美しくも悲しい物語として紡がれるのだ。
「マレーナ」で多くの男心をくすぐったモニカ・ベルッチが、今作でも圧倒的な存在感を見せ、イラン映画の往年のスターで久しぶりにスクリーン復帰を果たした相手役のべへルーズ・ヴォスギーと共に作品に重厚感をもたらせている。
「サイの季節」は、7月11日よりシネマート新宿ほか全国順次公開【紀平重成】
【関連リンク】
「サイの季節」の公式サイト
http://rhinoseason-espacesarou.com/