第558回「黒衣の刺客」
台湾のホウ・シャオシェン監督8年ぶりの新作は武侠映画。念願のジャンルに初挑戦したその作品は、山水画を見るがごとく美しく奥行きがあり、対比される人間社会のあまりの小ささをも浮き彫りにする。同監督の最高傑作に仕上がった。
唐代後期の中国が舞台。13年前に女道士に預けられた娘のインニャン(スー・チー)がわが家に戻ってきた。両親は喜んで迎えるが、美しく成長した彼女は厳しい修行の下、完璧な暗殺者に育て上げられていた。実はインニャンの目的は、かつての許嫁でもある暴君のティエン・ジィアン(チャン・チェン)暗殺の使命を果たすことだった。しかし、チャンスがありながらどうしても彼に止めを刺すことができず、逆に自分に情愛の心があることに戸惑う。ある日、謎の女剣士との死闘で大けがをしたインニャンは、難破した遣唐使船の日本人青年(妻夫木聡)に助けられる。
小さいころから中国語圏の伝奇小説や日本のチャンバラ映画に親しんだホウ監督にとって、武侠映画はいつか手がけたい作品だったという。しかし、描かれる立ち回りは空を飛んだり必殺技の応酬といった武侠映画の王道には向かわず、どちらかと言えば一瞬のうちに勝負が決着する、日本の剣豪小説のように静と動を鮮やかに対比させる演出だ。
たとえば覆面の女剣士との戦いでは、勝負がついた段階で両者はもう剣を鞘に収め、互いに背を向ける。また世話になった女道士による背後からの急襲も、さっと身をかわすだけで、振り返ることなく立ち去る。まるで達人は無駄な闘いをしないという美学があるかのように。もちろん、戦う前に決着がつく一切武力なしの勝負、あるいはそもそも戦わなければいけない状況を作らせないという戦略もある。でも、それはもはや武侠映画ではないという声が上がるかもしれない。いずれにしても、武道の奥義を極めたかのような剣士たちの立ち居振る舞いは味わい深い。バトルを極力抑えたホウ・シャオシェン監督の“究極の武侠映画”を楽しんではいかがだろう。
それに比べ、チャン・チェン扮するもうひとりの主人公ティエン・ジィアンは一国の主なのにいつもイライラしている。朝廷の意向やライバルの動きばかりを気にしていて、妻の懐妊も刺客のインニャンから教わるほどだ。孤独で余裕がなく、とうとう正妻の策略に気付き激怒するのだ。
同じ孤独を抱える身でも、インニャンはティエン・ジィアンとは対照的に妻夫木聡演じる遣唐使との再会を心から楽しむ。いつもクールで眼光鋭い殺し屋は、この再会の場面で初めて笑顔を見せるのだ。遣唐使の笑みにつられて出てきた笑顔とも言えるだろう。最後の場面に至る直前まで一切笑わない彼女が一瞬ではあるが浮かべた笑みは限りなくシンプルで美しかった。相手がそうなら、こちらだって、という国際政治の“しかめっ面競争”とは裏返しの関係と言えるだろう。対立ではなく協調を。ホウ監督が武侠映画に織り込んだ深いメッセージなのかもしれない。
それにしても映像は絵のように美しく、まるで山水画が動き出したかのような映画である。引きのカメラが一つのフレームの中に風のそよぎから雲の流れ、湖をいく魚のさざ波、人間の心の内まで同時に描いてしまう。この澄みきった心洗われる世界のなんという心地よさよ。スケールの巨大さ、奥行き、悟りの境地ともいうべき無心の世界。そして対比される人間社会のあまりの小ささ。リーピンビン撮影監督とのコンビで磨きをかけてきた映像の魔術師としての技量をさらに深く、かつ高みの際に引き揚げた。
この10年、武侠映画は中国大陸の巨匠を始め香港や台湾の監督が競って扱った題材である。中にはウォン・カーウァイ監督のようにスローモーションを多用した華麗な作品もあるが、ほとんどはキンキラキンのいささか品の欠ける作品ばかりだった。本作のような映画を作れるのは世界を探してもホウ・シャオシェン監督の他には見当たらない。
第68回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、監督賞を受賞。日本ではディレクターズカット版での公開となり、遣唐使の回想シーンとして女優の忽那汐里の場面が復活している。「黒衣の刺客」は9月12日より全国公開【紀平重成】
【関連リンク】
「黒衣の刺客」の公式サイト
http://kokui-movie.com/