第590回「海よりもまだ深く」

「海よりもまだ深く」の舞台になった東京・清瀬市の旭が丘団地 (C)2016 フジテレビジョン バンダイビジュアル AOI Pro. ギャガ
こんなはずではなかった、と人は誰しも思う時がある。見果てぬ夢を追い続け、あがいたであろうかつての自身を投影しつつ、是枝裕和監督が団地を舞台に市井の人々の哀感を優しい目線で描いた最新作だ。
ヒーローが活躍するわけでもなく、お洒落な場所が出てくるのでもない。それでも2時間近い上映時間にスクリーンに目が釘付けになるのは、登場人物のせりふや仕草が効いているからである。しかもそれは映画館を出た後、ふつふつと鮮やかに蘇ってくる。つまりは作品に力があるということだろう。
「誰も知らない」「空気人形」「そして父になる」「海街diary」などの作品で、いまやカンヌ国際映画祭の常連となった是枝監督だが、今作に主演する阿部寛とタッグを組むのは「歩いても 歩いても」「奇跡」に続いて3度目だ。

弟の良多を心配する姉の千奈津(小林聡美=右)と母の淑子(樹木希林) (C)2016 フジテレビジョン バンダイビジュアル AOI Pro. ギャガ
15年前に文学賞を一度とっただけの売れない作家、良多(阿部寛)。探偵事務所で働いているものの、世間には「小説を書くための取材」と言い訳し、書けない自分自身をもごまかそうとしている。妻の響子(真木よう子)には愛想を尽かされて離婚し、ギャンブルにのめり込んで11歳の息子真悟(吉澤太陽)の養育費も払えない自堕落な生活だ。
それでも別れた妻への未練はまだあり、ストーカーさながらに彼女を張り込んで、新しい恋人と並ぶ様子に衝撃を受ける。
ある日、団地で気楽な一人暮らしをしている母の淑子(樹木希林)の家に集まった良多と響子、真悟の元家族3人は台風のため帰れなくなり、狭い空間に閉じ込められて、どこか祝祭のようでもあり、切なくもある一夜を共に過ごすことになる。

良多(阿部寛)には狭すぎる団地の浴槽 (C)2016 フジテレビジョン バンダイビジュアル AOI Pro. ギャガ
感心するのは監督自ら書いた脚本だ。監督は映画にも出てくる東京・清瀬市の旭が丘団地に約20年、両親ら家族と住んだ記憶があり、その姿をいつかちゃんと映画の中に残しておきたいと考えていたという。
かつては高度経済成長下の新しい住まい方のシンボルでもあった団地が、建築後50年近くを経て老朽化し、単身高齢化も進んでいる。主人公の良多が夢見た未来とは違う人生にもがいている姿と、一戸建てや新しいマンションに移るまでの仮の住まいと位置付けられた団地の思わぬイメージの変わり様を重ねあわせた脚本が、妙にしっくり感じられるのである。
監督は作品を撮る動機について、プログラムの中でこう語っている。「最初に浮かんだのは、台風の日の翌朝、芝生が綺麗になった団地を歩く風景です。小さい頃から、なぜ台風明けの団地は美しいのか、ずっと気になっていたんです。何も変わっていないのに、一晩たって何かが大きく変わって見える。その瞬間を描きたいという思いがありました」
映画の後半は、まさにその台風の最中でいくつかのエピソードがあり、翌朝、台風一過の団地を後にして、清瀬の駅前で妻と息子を見送るシーンへと続く。何も変わってないのに団地がまばゆいほどきれいに見え、2人を見送る良多も心なしか吹っ切れたように見える。

響子(真木よう子=左)に恋人のことを聞き出そうとする良多 (C)2016 フジテレビジョン バンダイビジュアル AOI Pro. ギャガ
映画はそこで終わっているので、3人のその後は見る人がそれぞれ想像するしかない。一方、くすんで見えた団地は変わらないのだろうか。最寄りの駅からほどほどの距離で交通は便利。「羊羹型」と揶揄されながらも南面3室の間取りは、むしろ恵まれている方に属する。しかも低層で棟と棟の間の余裕ある空間は人間の感性にも合う。もちろん耐震化への備えは欠かせない。後は住人同士の交流によってそれぞれの物語を紡ぎ出していくことができれば、「こんなはずではなかった」という思いはしなくて済むかもしれない。いや、どんな道を歩もうとも、「これはこれでいい」と楽しむことができるならば、何も問題はないのだが……。
映画館を出た後、何度も蘇ってくるシーンの一つに、母親がつぶやいた名言を息子の良多が小説に使うかもしれない材料としてメモに書いて壁に貼る姿がある。監督も同じことをやったのではと思わせるリアル感があった。同様に嵐のよる、母親が布団を敷き、元家族の3人に狭い部屋で寝かせようとする場面。離婚しているのだから、それはまずいよと言う良多に、母親は「いいじゃないの。3人川の字に寝れば」と押し切る。妙に現実感があって監督の脚本の冴えを感じる。

父親らしさを見せようとする良多に顔をほころばせる息子の真悟(吉澤太陽) (C)2016 フジテレビジョン バンダイビジュアル AOI Pro. ギャガ
テレサ・テンの「別れの予感」が劇中に使われ効果を上げている。映画のタイトルは、その歌詞の中から使われたものだ。
「海よりもまだ深く 空よりもまだ青く あなたをこれ以上愛するなんて わたしには出来ない」
息子を愛する母親なら、良多の場合のように「出来の悪い子ほど可愛い」と笑って済ませるが、男女の仲だと、そんな軽口をたたく余地はないのかもしれない。
「海よりもまだ深く」は全国公開中【紀平重成】
【関連リンク】
「海よりもまだ深く」の公式サイト
http://gaga.ne.jp/umiyorimo/