第626回 「草原の河」

「草原の河」の一場面(C)GARUDA FILM
かつては映画不毛の地と思われていたところで映画の制作が盛んになったり、長期低落傾向にあった国の映画産業が復活の兆しを見せたりと、世界の映画制作事情は浮沈がめまぐるしい。チベットは前者に相当するのだろうか。東京の岩波ホールで公開中の本作は、チベット人の監督による初の日本公開作品である。
チベットを舞台にした作品は、古くは「セブン・イヤーズ・イン・チベット」(ジャン=ジャック・アノー監督)を始め、「チベットの女 イシの生涯」(シエ・フェイ監督)、「ラサへの歩き方 祈りの2400km」(チャン・ヤン監督)など、しばしば公開されているので、意外に思われるかもしれないが、チベット人監督による日本公開作品は今までなかった。チベット人監督の作品として記憶に新しい「オールド・ドッグ」や「タルロ」(ペマ・ツェテン監督)も、東京フィルメックスという映画祭での上映だった。

色彩感覚の素晴らしさにも注目(C)GARUDA FILM
さて、本作の出来栄えである。ソンタルジャ監督らスタッフから出演者に至るまで、大半がチベット人なので、徐々に映画人の層が厚くなっていることは間違いない。しかも演出から音楽、美術まで、各担当者の才能がキラリと光っている。おそらく互いに切磋琢磨しているのだろう。
海抜3000mの厳しい自然の中で半農半牧の暮らしを営む一家。6歳の娘ヤンチェン・ラモは、母親から新しい命を授かったと聞いて、生まれてくる赤ちゃんに母のおっぱいや縫いぐるみのクマを取られないかと不安になっている。父のグルは、いまは僧侶に戻った祖父から家族が捨てられたという思いが強く、その祖父を許せないでいた。母と娘、祖父と父、そして父と娘。そんな家族三代の微妙な組み合わせが少しずつ変わろうとする時がやってくる。

まだ見ぬお腹の中の赤ちゃんのことが気になるヤンチェン・ラモ (C)GARUDA FILM
「陽に灼けた道」に続く長編2作目のソンタルジャ監督。北京電影学院の先輩後輩の間柄であり、本作のプロデューサーでもあるペマ・ツェテン監督と、ついつい作品の比較をしてみたくなる。
共通するのは、オオカミと子羊、そしてオートバイが印象深く登場している点だ。これは撮影場所が、自然の厳しく交通の不便な同じチベット地方だから、やむを得ないかもしれない。
一方、相違点は、ペマ・ツェテン監督の「オールド・ドッグ」や「タルロ」には人を騙してでも金儲けをしようと考える悪い人が登場するが、本作では、そんな人は出てこず、純朴な善人ばかりである。強いて言えば、僧侶になった自分の父親が病気になっても、見舞いに行こうともしない息子のグルを、近所の人が噂し、それを聞いた子供たちがヤンチェン・ラモに対し「お前の父親は親の面倒を見ない悪いやつ」といじめ、幼い彼女が泣き崩れる場面。子供のいじめは他愛もないし、話題に上った父親の「悪行」にも理由があり、悪人とは本質的に違いがある。
では、二人の作品には違いのほうが多いということだろうか。名指しでは出てこないが、中国への敏感な思いが見え隠れしているように思う。どちらの作品にも放牧などチベット固有の伝統文化を飲み込もうとする経済発展と、それと並行して推し進められていくかのような中国の同化政策への批判的まなざしを感じるのだ。

父親と祖父のお見舞いに向かうが…… (C)GARUDA FILM
ペマ・ツェテン監督の「オールド・ドッグ」ではチベット犬に群がる中国の仲買人と、
チベット人の誇りを守るためある決断をする老人との攻防が凄烈だったし、「タルロ」では放牧生活に見切りをつけた男の悲哀を印象的に描いている。これに対し、ソンタルジャ監督は、美しいけれども厳しい放牧生活を少ないセリフと表情だけで描きつつ、徐々に失われようとしている伝統文化への限りない哀惜の念をつづっていく。冒頭で固定家屋への集住政策で整然と並んだ家屋が出てくるが、これも最近の生活スタイルという。
深読みすれば、父親の判断で地元政府からあてがわれた冬の住まいを他の人よりも早く出たために、雪が吹き荒れる早春の放牧地でメスの羊がオオカミに襲われ、その羊の赤ちゃんが映画の主人公ヤンチェン・ラモの遊び相手となり、その後、彼女の試練と成長へとつながっていくのだ。
背景に中国の存在という動かしがたい圧力を感じながら、せめて伝統文化の輝きを、美しい映像とラストの音楽、素人ながら出演者から放たれる実直そのままの表情と共に映像記録として焼き付けたとは言えないだろうか。

天珠は神様の贈り物と信じるチベット人が多い。ヤンチェン・ラモは別の理由で隠そうとする (C)GARUDA FILM
その素人出演者の中でも他を圧して存在感を発揮していたのは、もちろん撮影開始時に6歳だった娘役のヤンチェン・ラモだ。前半では家族を振り回すダメな父親の行状を、しばしば呆れた顔で見上げる表情が素晴らしかったし、一人っ子という安泰の地位を奪われまいと母親と戦わす数々のいたずらが微笑ましい。そして後半は幼い娘には過酷な生死の現実を目の当たりにする場面で、目を大きく見張らせる慄(おのの)きの表情も忘れがたい。演技を超えて、幼女の心象そのものだったのかもしれない。
カメラワークも強い印象を残した。ハダカ麦の種をまけば秋には実がなると母親から聞いて、ヤンチェン・ラモはクマの人形を畑に埋める。こうしておけば人形もやがて実がなるように次々出てきて、赤ちゃんにクマ人形を分けられると考えてのこと。母親から家に帰ろうと言われ、後ろを何度も振り返りながら手前の母親に近付いて来る奥行きのあるカットは、一度に様々な情報を伝える事ができる。
こんな場面もある。オートバイに乗って移動中の父親とヤンチェン・ラモが意見の食い違いで彼女を残したまま発進する。仕方なく彼女は歩いて後を追う。戻ってきた父親が坂の上から見下ろしていると、気づいたヤンチェン・ラモがしばし静止する。画面上は豆粒のように小さいながら、安堵の思いとともに父親の行為への怒りが渦巻いているであろう彼女の表情が手に取るように見える気がする。同様の手法は様々な場面で使われ、少ないセリフでも十分にカバーできることを我々に教えてくれる。
チベットに生まれ育ちつつある映画制作集団。この先の歩みはもう見逃せない。
「草原の河」は岩波ホールで上映中。ほか全国順次公開【紀平重成】
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