第631回 「マダム・ベー ある脱北ブローカーの告白」

「マダム・ベー」の一場面。中国からタイに密入国を試みるが…… (C)Zorba Production, Su:m
ことの始まりは、家族のために1年の出稼ぎのつもりで中国に渡った北朝鮮女性が、だまされて中国の貧農に嫁として売り飛ばされるところからだった。
だが、彼女は最初は憎んでいた中国の夫と義父母との生活を受け入れ、さらに北と中国の二つの家族を養うために脱北を手引きする危険なビジネスに手を染めていく。
しかも彼女は北朝鮮に残してきた家族の将来を案じ、彼らを脱北させた後、彼女も息子と夫の3人が待つ韓国へと違法出国するのだ。この数奇な運命を自ら選びとった北朝鮮女性を人は「マダム・ベー」と呼ぶ。

騙されて貧農の中国人に嫁として売られたマダム・ベー(右) (C)Zorba Production, Su:m
フランスと韓国を拠点に映画製作を続けるユン・ジェホ監督と彼女との出会いが面白い。脱北者のドキュメンタリーを撮るため情報を集めていた監督に、彼女は「私を撮ればいい」と言い放つ。

働き者の嫁を頼りにしていた義母は嫁が韓国に渡ると聞いて困惑する (C)Zorba Production, Su:m
脱北者が危険を顧みず、監視の厳しい国境を越える映画はこれまで何度も見ている。しかし、拷問シーンやアクションもないのに、ベーの精神的な強さに圧倒され、その一方で、他の人と変わらぬように我が子へ情愛を注ぐシーンに妙に納得させられるのである。
マダム・ベーには二つの顔があるのだろうか。危険な脱北ブローカーとしての冷徹でタフな顔、そしてもう一つは何年も母親不在の離散家族をまとめ、母として、稼ぎ手として韓国で平穏に暮らす顔だ。

韓国に脱北した息子との暮らし (C)Zorba Production, Su:m
そんな彼女の日常にふと現れる非現実的な光景に驚かされることがある。中国の夫にテレビ電話をかけ、画面に映る夫の顔を見ながら世間話をし、時には笑い声も混じるなど親しげに語る。それを子供二人と脱北して同じ韓国の自宅で暮らす北朝鮮出身の夫が黙って聞いている。どんな思いでいるのかと思わず聞いてみたくなる。
さすがにユン・ジェホ監督も、このシーンには驚いたという。スマホという最新のハイテク商品の浸透は、時に信じられない光景を演出してくれる。

息子たちと一緒に脱北した北朝鮮出身の夫と食事をとるマダム・ベー (C)Zorba Production, Su:m
監督と彼女には共通点が多い。彼自身が越境を常とする人生を送り、マダム・ベーの波乱の人生と重なる。韓国へ渡るべーに同行しタイに密入国までするなど、敢えて困難な道を選ぶところもよく似ている。似た者同士の境遇に、互いの気持ちが共振したのかもしれない。
一人の女性の人生ドラマとして見ても十分に感動的だが、困難な状況を余儀なくされた背景には、分断国家という厳しい現実がある。分断が否応なく国民の分断を生み、それならばと幸せをつかむために敢えて別離することが、また新たな別離を生むという皮肉な結果をもたらす。国が国民に不幸を押し付け、また解決することができないのなら、国など頼らずに自ら解決するしかないと考える人は、これからも出てくるだろう。
ユン監督は昨年のカンヌ映画祭で同時に2作品が上映されている。一つは本作、そしてもう一つはフィクションで短編の「ヒッチハイカー」だ。同じ年に2本上映というのは並々ならぬ才能があることを示していると言える。
絵画に関心が高く、フランスで映画を学び、脱北者の作品を撮った監督と言えば、すぐに思い出すのはキム・ギドク監督だ。昨年の東京フィルメックスでオープニング上映された同監督の「The NET 網に囚われた男」と比較して見るのも面白いかもしれない。
「マダム・ベー ある脱北ブローカーの告白」は6月10日よりシアター・イメージフォーラムほか全国順次公開【紀平重成】
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