第632回 「裁き」
まだ公開まで間があるというのに、今こそ書かずにはいられない作品だ。
インドのムンバイで初老の男性歌手が逮捕された。罪状は「自殺を扇動する歌を歌った
」というもの。そう、この映画はただ歌っただけの男が自殺ほう助の罪で捕まり、長い裁判を余儀なくされるという不条理を描いたものだ。先入観を持つ検事、ウソをつく証人。「そんなことは外国でのお話」とは言えない状況になりつつある日本。今こそ見ないではいられない作品というわけである。
監督は歌と踊りの娯楽大作をメインストリームとするボリウッドとは一線を画しながら
、斬新なカメラワークと着想で創作活動を続けるチャイタニヤ・タームハネー。2014年のベネチア国際映画祭では本作品がオリゾンティなど2部門で栄冠に輝き、インド映画の新世代監督として注目を集めている。
ある日、ムンバイで下水清掃の男が死亡し、65歳の民謡歌手ナーラーヤン・カンブレが逮捕される。容疑は、カンブレの歌う扇動的な歌が清掃人を自殺に追いやったというもの。裁判には、100年以上前の古い法律を持ち出して刑の確定を急ぐ検事と、人権を尊重する若手弁護士、公正な訴訟を心がけようとする裁判官、偽証する目撃者など、様々な人々が顔をそろえる。
知っての通り、インドは民族や言語、宗教、そして階層の異なる人々が生きる複雑な社会。そんな国情を冷徹に観察しつつ監督が自ら作り上げた脚本は、まるで全ての登場人物が監督に命を吹き込まれたかのように、ごく自然に自分のキャラクターを演じる構成になっている。
インド社会には、カーストと呼ばれる歴史的に形成された身分制度がいまなお残ってい
るといわれるが、法廷で人の姓を読み上げるシーンが繰り返されるのも、名前を呼ばれた人の社会階層をそれだけで暗示できるからという。同様にその人がどこに住み、どんな物を食べているかということも、その人の社会的な位置を理解する上で大事な要素になっている。
映画の中でも、主人公である青年弁護士が、訴訟資料を食卓に広げ読み込んでいく場面がある。母親はそれを注意し、きちんと食事をとらせようとするが、弁護士は資料が気になってなかなか顔を上げようとしない。そこへ彼から証人探しの手伝いを頼まれた男がやってきて、母親から食事を勧められ、一度は断るが、再度勧められて食べ始める。すると男が息子の友人だと勘違いした母親は「この子 恋人はいる? 家で何も言わないの。結婚話が出ると怒りだすのよ」と言って、案の定、息子を激昂させてしまう。男は食べかけの朝食をそのままに、外へ飛び出した息子の後を追う。こんなユーモラスなやり取りの中に、人権派と思われる弁護士の家庭環境や、言い出したら聴かない性格が浮き彫りにされる。
弁護士だけでなく女性検事も、列車の中で友人から晩のおかずを聞かれ、「いつも通り有り合わせ」と答え苦笑いする。別の場面では訴訟の見通しについて仲間に「懲役20年でいいのよ。同じ顔に同じ話、飽き飽きよ」と答え、被告にとっては人生の大問題が、半ば機械的に処理されている様子をうかがわせる。
常に公平な訴訟を心掛けている裁判官は堅実な訴訟指揮を行うが、地域の私的な催しでは意外な顔を見せてくれる。
法廷劇といえば、狭い空間をどう立体的に見せるかに工夫が凝らされがちだが、タームハネー監督は弁護士と検事、裁判官の私生活を描くことで、閉鎖的な法廷を社会とつながった時間的にも空間的にも奥行きのある場にすることに成功したと言えるだろう。
冒頭、あるいは後半にも被告のカンブレが、社会を糾弾する過激な内容を含む歌を激しい調子で歌う。演説と歌がミックスしたラップ調の抵抗歌劇と言ったらいいだろうか。それが音楽的にも素晴らしく、見ごたえもあるのだが、映画の中では警察から危険人物とみなされる。そうなると警察はいい加減な罪状で捜査し、怪しい証人はウソを言うなど冤罪事件の怖さを見せつける。
背景には職業や階層への差別が見え隠れする。歌で抵抗する民謡歌手は弾圧し、抵抗しない下水清掃人には劣悪な職場環境を放置し、結果的に死に至らせる。日本でも政治や経済、社会の様々な場面で異議を申し立てるケースは多々あるが、「共謀罪」法が成立したことで一般の人が捜査・監視対象になったり、通信傍受法の改正など監視社会が強まる心配はないだろうか。
そんなことを考えるのに、本作は様々なことを教えてくれるはずだ。
「裁き」は7月8日よりユーロスペースほか全国順次公開【紀平重成】
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