第659回 「花咲くころ」
ジョージア出身の栃ノ心が大相撲初場所で平幕優勝して以来、「どこにあるんだっけ、バルト三国? それとも東欧?」とにわかに関心を集めているのが黒海とロシアにはさまれた小国、グルジア改めジョージアだ。ワイン作り発祥の地と称され、かつてはソビエト連邦を構成する共和国の一つだった。しかし、ソ連から独立した後、内戦のために国内は荒廃し人々は先の見えない生活に不安を抱いていた。当時14歳だったナナ・エクフティミシュヴィリ監督が、自身の記憶をもとに少女二人の友情と成長を力強く描き、東京フィルメックスなど各国の映画祭で受賞している。
1991年、ジョージアは念願の独立を果たしたものの、内戦勃発で人々の心は荒んでいた。首都トリビシに住む幼なじみの14歳の少女エカとナティアは、口うるさい親の小言にウンザリし、パンなど生活物資を配給する長い列に並びながら、おしゃべりするのが息抜きのできるささやかな時間だった。ある日ナティアは思いを寄せる青年ラドから拳銃を渡される。モスクワに住む伯父のところへ行く彼が、自分が留守をする間の護身用にと託したのだ。心配は的中し、ナティアに一方的に思いを寄せる不良グループのコテが配給待ちの行列に並ぶナティアを誘拐。結婚を強要する。
コテの強引な行為は自分への愛だと思うことにしたナティアだが、結婚後は学校にも行かせてもらえず、楽しみにしていた自分の誕生会も、結婚式のお祝い行事で出費がかさみお金がないとコテの母親から言われる。単調な日々に鬱屈していたナティアに、ある日、さらに悲劇が襲う。
ジョージアの位置する場所はコーカサス山脈の南側で、ロシア、アゼルバイジャン、アルメニア、トルコに接し、アジアの西端、あるいは東欧に組み入れてもおかしくない位置にある。アジア東端の日本とはこんなに離れているのに、意外なことに共通点がある。主人公のナティアは14歳。日本でいえば中学生の新婦という早婚である。また成人すれば家を出るのが一般的なヨーロッパとは異なり、結婚後も夫の親と同居する。この習慣はかつての日本の習慣とよく似ている。アジアの両端で似たような風習がかつてあったことに興味がわく。
しかし、習慣の近似性以上に興味を持ったのは、監督が脚本に込めた戦争や暴力を否定するメッセージである。エカは親友のナティアが銃を使いそうになった時、その銃を池に投げ捨てる。憎しみの連鎖は、憎しみではなく相手を赦すことでしか断ち切ることはできないという強い思いだ。この非暴力や平和主義は、ノーベル平和賞に輝いた国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN〈アイキャン〉)の考え方ともつながる。ジョージアで監督が得た思いは世界のどこでも共感される普遍性を持ったと言えるだろう。そしていま語られるジョージアの内戦が、どれだけ国内を分裂させ、後々まで人々を苦しめたかを示している。勝っても負けても、戦争で得をする人などいないのだ。
監督は女性が自立しないといけないというメッセージも作品に込めている。エカに銃を捨てさせたこともそうだが、ナティアの結婚式ではエカに男性の踊りを演じさせ、男は女を守り、女は男に守られるという伝統的な考え方にとらわれないしなやかな発想を持つよう促す。つまりは自分で考えなさいということだろう。
映画の場面場面を思い出すと、男はアルコール中毒だったり、殺人の受刑者やチンピラといった社会の困りものばかりが出てくる一方、女性はエカのように、思い悩みながらも自分の道を進もうとする若くて凛凛しい女性や、そんな孫娘をやさしく見つめるおばあちゃんを登場させるなど好意的だ。同性である女性に期待する監督の思いが伝わってくるようだ。
劇映画でありながらドキュメンタリーのようにリアルに感じられたのは、監督がかつて暮らしていた地域で撮影したからだろう。教室の黒板、トイレの扉、トンネルの暗闇。そのどれもが質感たっぷりに迫ってくる。人工的に雨を降らしたであろうにわか雨のシーンですら、二人の少女が雨に打たれつつ街中を駆け抜ける美しい映像に青春の華やぎと、やがて来るであろう苦難の匂いを感じさせ、目を奪われた。みずみずしい映像と揺るぎのないメッセージを堪能されることをお勧めする。
「花咲くころ」は2月3日より、岩波ホール創立50周年記念作品第1弾!として公開されるほか全国順次公開。【紀平重成】
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