第660回 「欲望の翼」デジタルリマスター版
この作品の魅力はもう語り尽くされているはずなのに、なおも書かずにはいられない衝動に襲われる。なぜなのか。それはこの作品に唯一無二のものが詰まっているからである。
たとえば冒頭で語られる次のような会話。香港のサッカー場の売店で働くスー(マギー・チャン)の前に立ち現れたヨディ(レスリー・チャン)が、いきなり自分の名前を呼ばれて警戒する彼女の様子など御構い無しに「1960年4月16日、3時前の1分間、君は僕といた。この1分を忘れない。君とは1分の友達だ」と言い放つ場面だ。
こんなにキザで傲慢かつ摩訶不思議な物言いをする者など現実にはいないだろう。映画の中だからこそ、いや映画の中でさえもまずお目にかかれない。ウォン・カーウァイ監督が劇中のスーだけでなく、それを見る観客の心をもつかみ取った一瞬である。
香港における公開は1990年。当時考えられ得る最強の6大スターによる華麗な共演は、それだけでも必見の作品だ。また俳優のイメージを見事に取り込んだキャスティングの妙にもうならされる。
相手の心をもてあそぶかと思うと、細やかな気づかいも見せるヨディ。本当は優しいのに、愛に飢え、どこか投げやりな男をレスリー・チャンが地で行くように好演する。その相手役で清楚なたたずまいの内に一途な思いを秘めるスー役にはマギー・チャン。はすっぱな物言いなのに、どこか可愛いミミ役のカリーナ・ラウ。その彼女を一瞥して恋の虜になったサブの役をジャッキー・チュンが男くさく魅せる。
一方、スーに好意を寄せながらも一線を越えようとはしない警官役のアンディ・ラウ。さらにラストで髪に櫛を入れる怪しげなギャンブラーを演じるトニー・レオン。名声を極めた俳優たちの香り立つような若き日の一瞬が作品を通じて蘇るのである。
どの俳優にも見せ場のある青春群像劇だが、主役は断然、レスリーである。考えてみれば当たり前だ。二人の女から愛されているのに、無情にも捨て去るのはレスリー演じるヨディだけ。マギー・チャンとカリーナ・ラウは捨てられた後、別の男に思いを寄せられる役。アンディ・ラウとジャッキー・チュンはかなわぬ恋と知りつつ、待ち続けるばかりの役柄だ。トニー・レオンは賭け事と恋愛の荒波を前に、いざ行かんという構図だろうか。
だが独り勝ちのように見えるレスリー演じるヨディには大きな「不債」があった。養母に育てられた彼は、母親からの愛に飢え、屈折した心を持て余していた。つまりは登場する全員が満たされぬ思いを抱えていたということである。この濃厚な欠落感が映画を前進させ、単なる恋愛映画には終わらせない力になっているのだろう。ウォン・カーウァイ監督の脚本と演出が卓越している最たる部分である。
では、なぜ若者たちは揃いも揃って影を抱えているのだろうか。舞台となったのはヨディがスーの前で宣言した通り1960年4月16日の香港。当時世界をリードしたアメリカは「黄金の60年代」を迎え、世界経済は拡張し、その恩恵は日本や香港など世界各地に着実にもたらされていた。
経済だけでなく映画など文化の面でも「あすはもっと良くなる」という成長神話に酔いしれていた時代。映画の中でもヨディの養母レベッカが初老の恋人とアメリカに渡る話が挿入されている。「見果てぬ夢」はアメリカでこそかなうのだと言わんばかりに。
そしてアジアではベトナム戦争が不安定要因の一つとして頭をもたげ始め、中国では毛沢東主席による大躍進政策の失敗で大量の餓死者を出し、さらに中国を長期に渡って停滞させる文化大革命へと繋がっていく。
60年代という時代は明るさが語られる一方で、波乱を内包した時代でもあったのだ。時代の変化へのアンテナを常に張りめぐらせる若者たちだからこそ、来るべき大きな影を感じていたのだろうか。そんな気配を監督は巧みにスクリーンに取り込んだのかもしれない。
ただウォン・カーウァイ監督がすべてをコントロールできたとは思わない。1958年生まれの監督は、一世代上の団塊世代とそれに続く1950年代前半に生まれた美術のウィリアム・チョン、撮影のクリストファー・ドイル、編集のパトリック・タムら映画界で先に活躍し始めた才能豊かな人たちの力を上手に使ったことはよく知られている。本作品も彼らの協力が無ければ生まれなかったろう。
もちろん音楽が気に入らず、自分のコレクションからラテンの名曲を取り入れたことや、舞台から遠ざかっていた歌手のレベッカ・パンの魅力に惚れ、本作で映画初出演の離れ技を演じさせるなど勘の良さは称賛するしかない。このあたりは、同じ歌手のフェイ・ウォンを「恋する惑星」にキャスティングし、成功を収めたことを思い出させる。
ともあれレスリー・チャンの最高傑作と筆者が思う本作に彼を主演で迎え入れたウォン・カーウァイ監督の選択には感謝するばかり。そのことを忘れない。
「欲望の翼」は2月3日より、Bunkamuraル・シネマほか全国順次公開中【紀平重成】
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