第689回 新刊「すきな映画を仕事にして」
新刊「すきな映画を仕事にして」。
著者は1987年に当時としては珍しい女性が設立した映画配給会社「パンドラ」の中野理惠代表だ。同じ大学で学び映画好きというところも共通し、卒業後も映画の情報交換をする機会が多く、振り返れば40年以上のお付き合いである。
その彼女がウェブで自分の歩みと配給の仕事の面白いエピソードを交えた読み物を連載していることを知り、本になるのを心待ちしていたところ、先日送られてきたのだ。B5版一枚の出版社からの挨拶状にはただ一言「よろしく! 中の」の手書きの文字。言われなくても御紹介するつもりだったが、読み始めると期待以上のおもしろさに驚いている。友人だから身びいきで言うのではない。女性が仕事をすること、マイノリティの人たちの生きづらさ等、彼女の感性が時代より30年以上早かったために理解されず悪戦苦闘した思いがつづられていて、単に映画の世界の紹介にとどまらず、そのまま現代女性史になっている。そこに読みごたえを感じたのである。
まえがきで紹介される全日本洋画労働組合の当時の事務局長による自虐的な言葉が配給という仕事のある意味本質を突いていると思う。
「製作の人は名を残し、興行の人はカネを残すが、配給の人は何も残さない」
中野代表も「40年以上、その『何も残さないミズショウバイ』を仕事にしてきてしまった」と自身を振り返り、著書を「恥かき人生の記録」としながらも、あとがきで「唯一好きな映画に出合い、それを仕事とすることができたことだけはラッキーだったと思っている」と結んでいる。
なぜ配給という仕事は名もカネも残らないのか。そもそも配給の役割とは何だろうか。それを理解する上で最適なのは、パンドラが86年暮れから2年をかけ初めて配給という仕事を手掛けた作品「ハーヴェイ・ミルク」だろう。
アメリカの政治家であるハーヴェイ・ミルクは77年にゲイであることを世界で初めてカミングアウトし、その後全米初の市政執行委員に選ばれた。行政側から政治を監視する役割を担い、同性愛者をはじめマイノリティに対する差別の撤廃に尽力したが、78年同僚委員に射殺された。彼の名はLGBTQの権利運動の象徴となり、その活動と暗殺事件、裁判の行方を追うドキュメンタリー映画「ハーヴェイ・ミルク」(ロバート・エプスタイン監督)は85年のアカデミー賞最優秀長編記録映画賞を受賞している。
この作品に出合ったことが彼女の人生を変えた。
86年の暮れ、10年以上勤めた洋画の輸入配給会社を辞めるつもりでニューヨークに向かった中野さんは女性用の手帳を企画し参考になる情報を求めて同市内の書店を回ったところ、多くのダイアリーにハーヴェイ・ミルクの写真が載っていることに気付いた。彼の映画の評判は現地在住の日本人たちから聞いていたので、すぐ映画のプロデューサーに連絡を取り作品を見て感動。その勢いでスイスのエージェントから日本で上映する権利を取得した。
初めて取り組んだ配給権取得交渉があまりにもスムーズに進んでビックリしたが、その後の公開劇場選びから字幕付け、宣伝まで配給本来の地味な仕事は苦労の連続。その間の涙ぐましい努力の詳細は本書で確認いただきたい。
とはいえ一つだけ紹介すると、ハーヴェイ・ミルクがゲイであることを「come out する」に字幕を付ける場合、字幕の文字数制限や分かりやすさを優先するなどの条件から、「打ち明ける」「公言する」「カムアウトする」などが候補に挙がり、議論の末に、結局「カムアウト」とカタカナの字幕を採用し、(ゲイだと公言すること)を加えた。今ではすっかり定着した言葉だが、当時は見慣れない言葉で、まさに「言葉は歴史を背負っている」ということだろう。
同じ映画に関わりながら、監督やプロデューサーは製作重視で、それ以外の劇場選びやチラシ作製など宣伝の仕事は裏方的なものとして軽く見る映画人も多い。中には様々な費用がかかることもまったく理解せず配給を相談してくる監督もいた。
しかし、新宿のレストランで映画の邦題作りに苦しんだ挙句、通りかかった18歳のウエイトレスに候補作のリストを見せながら「どの題名がいい」と尋ねたところ彼女は即座にカタカナの名前を選んだ。居合わせた10人ほどの関係者が一斉に「それだ!」と彼女を指差したというエピソードは愉快である。ちなみにその作品は韓国映画「イルマーレ」。邦題は日本語題名にとこだわる中野さんが例外を認めた数少ない作品の一つかもしれない。
こうと決めたら作品の評価から映画のタイトルまで自分の意志を貫こうとする性格は学生時代と変わらない。そんな彼女の交友範囲は驚くほど広い。大島渚、黒木和雄、若松孝二、小川紳介、土本典昭ら亡くなった監督や高野悦子さん(元岩波ホール総支配人)らに信頼されたエピソードが本書でも紹介されている。
配給した作品は主なものだけでも約50作に上り、ジャンルも幅広い。かつて新聞や本コラムで筆者が紹介した作品も「ビヨンド・サイレンス」「チェチェンへ アレクサンドラの旅」「ジプシー・フラメンコ」「不思議惑星キン・ザ・ザ」など印象深いものが多い。また2002年に日本で初めて商業劇場で副音声付上映を実現させたことも記憶に新しい。他では実現しない作品を好んで上映し、見る機会の少ない人に映画を届けることを心がけたということだろう。すきな映画を仕事にして、確かにラッキーだったと思う。
新刊「すきな映画を仕事にして」(著者:中野理惠/発売:現代書館/編集:キネマ旬報
社)は10月25日発売。本体1500円+税
【紀平 重成】
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