第697回 「迫り来る嵐」
ちょうど1年前の「私のアジア映画ベストワン」に映画史研究者の劉文兵さんも推薦した本作。2017年の東京国際映画祭ではドアン・イーホンが最優秀男優賞を獲得しキャスティングの確かな目を印象付け、さらに氷雨に降りこめられる暗く重い映像にこだわったシャープな演出に至るまでドン・ユエ監督の緻密な映画作りに圧倒された。
世界史に類を見ない爆発的な経済発展で社会が激変した1990年代後半の中国。明日のより良い暮らしを夢見て誰もが希望の灯を持ち始める中、地方の小さな町で若い女性を狙った連続猟奇殺人事件が起きる。国営工場で警備員を務めるユィ(ドアン・イーホン)は刑事にあこがれ勝手に捜査を進める。そのうち被害者が自分の恋人イェンズ(ジャン・イーイェン)に似ていることに気付き思いがけない行動に走りだす。
来る日も来る日も続く陰鬱な雨。行き詰まる捜査。斜陽に転じた国営工場の大量解雇など時代のリアルを重苦しい映像と重ね合わせて描いたサスペンスノワールだ。暗いダンスホールや、くすんだ工場も経済発展に取り残されつつある地方の格差拡大を表わしているが、より深く共感を感じるのは登場人物の心の在り様だ。
家庭を顧みず捜査に打ち込む刑事が「引退後は日向ぼこ」と語るのはきつい仕事に耐え引退間近い今の心の支えとも読み取れるし、同僚から公安の仕事への転職を勧められる主人公ユィは「昇職」の話に満更でもない。その恋人イェンズは「香港に簡単に行けるようになると思う?」と男に聞くのは当時の香港が中国人にとってあこがれの地であったことをうかがわせる。市井の人々の誰もが持つであろう夢をドン・ユエ監督は映画の中に丁寧に織り込んでいく。
国中が豊かになっていくと思われた経済発展が運用を間違えれば格差を拡大し激しい上昇志向や怨嗟の気持ちを人々の心に植え付けていくことはよく知られている。映画でも解雇された主人公はポッカリ空いた心の穴を埋めるかのように捜査にのめりこんでいく。行く手を遮られた男が起死回生を狙い選んでしまった奇策を笑うことはできない。
本作はポン・ジュノ監督の「殺人の追憶」やディアオ・イーナン監督の「薄氷の殺人」と並び称されることが多い。筆者も「ノワール好きの面々をも大満足させる新たな才能」と思う。入念な人間描写と、こだわり尽くした映像とが相まって、極上のサスペンス映画に仕上がっている。
とりわけ感心したのは、後半さりげなく挿入された主人公が工場跡を尋ねる場面。ここで警備員と交わされる会話は、この連続猟奇殺人事件の解釈を根底から覆しかねない「ヒント」が含まれていて背筋がゾクリとさせられた。
「迫り来る嵐」は1月5日より新宿武蔵野館、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国順次公開
【紀平 重成】
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「私のアジア映画ベストワン2018」の結果を近く発表いたします!みなさんの投稿結果をどうぞお楽しみに。