第702回 「誰がための日々」
本コラム第699回「2018年 私のアジア映画ベストワン」でもご紹介したように、いまひとつ元気のなかった感のある香港映画に復活の兆しが見えている。香港の若手監督たちが中国返還後の香港を舞台に市井の人々の暮らしを様々な角度から撮り始め、いずれも小品ながら興行的にも成果を上げているからである。テーマは雨傘運動といった政治問題から高齢者やLGBT(性的マイノリティ)、経済格差まで多岐にわたっている。介護うつの最中に母を亡くしてしまった青年の苦悩を描く本作もその一つと言えるだろう。
映画は白く冷やかな病室で主人公のトンと父親のホイが医師と向かい合う場面から始まる。トンのうつ病は薬で安定していることやベッド数確保の都合があることを医師は告げながら退院を勧め、最後に「家族の支えが一番大切です」と言い渡す。半ば強制の退院勧告に2人が戸惑ったのには理由があった。
トンには婚約者のジェニーがいた。家を買い、結婚して共に暮らすという誰もが思い描く夢。それが無残にも崩れていくきっかけになったのは寝たきりの母親の介護を1人背負ってしまったことにある。母から溺愛されていた弟はアメリカに永住し、仕事優先の父親はお金を入れるだけで家に寄り付かない。体が自由にならないいらだちと寂しさからトンに辛く当たる母親に、それでも家族として1人残った彼は母を施設に預けようとはせず仕事を辞めて世話を続ける。互いのストレスが極限に達したある日、言い争いの末に事故が起き母親が亡くなってしまう。自責の念から重いうつ病を患ったトンは精神科病院に入院。それが1年前のことだった。
長らく交渉のなかった父子2人が一緒に暮らすことの戸惑い。しかも「薬はきちんと飲むように」と念押しされている病の再発不安。父が用意した住まいは狭いアパートをさらに区切って使う3畳ほどの部屋。そこに2段ベッドを押し込み、衣装ケースやポットなどの生活用品を置くと大人2人がすれ違うこともできない狭さになる。この環境がそれでなくともトンの心細い心理に微妙に影響を与えたことだろう。長編デビュー作となったウォン・ジョン監督の細部にわたるまでこだわった映画作りの姿勢がこんなところにもよく表れている。
気の滅入るような場面が延々と続くのに地元香港では2億5000万円も稼ぎだす大ヒットになったのは何故か。それは返還後の香港のありのままの姿が課題も含め丁寧に描かれているからではないか。身動きもできない狭いアパート暮らしは確かに簡単には解決できない問題だが、見方を変えれば住めば都でやがて慣れるし、住民同士の会話は否が応でも密にならざるを得ない。また私生活も覗かれてしまうほど狭い空間なら、無知と警戒心によって生まれる他人への冷やかな目などはさっさと返上し、むしろ助け合うべき仲間と割り切って互いに理解、共感し合う眼差しが大事という風に。
そんな見方は理想すぎると言われるかもしれないが、次々と押し寄せるトラブルは、だからこそ長らく理解し合うことのできなかった父子の結びつきを徐々に強めていくように見える。この難しい役回りを「インファナル・アフェア」シリーズでの演技が記憶に残るショーン・ユーとエリック・ツァンが好演している。
本作の素晴らしいところは平凡な香港の人々の暮らしを描きながら、そこに高齢者問題から家庭崩壊、格差拡大、そしてうつ病まで折り込んでいる点だ。近年の香港映画は潤沢な大陸資本に引き寄せられるように有名監督が娯楽大作映画を量産し、「香港人の香港人による香港人のための映画」は忘れ去られたようにも見える。しかしそんな時だからこそ、いま最も求められる作品が香港で作られ、それが支持されているのかもしれない。本作を始めここ1、2年大阪アジアン映画祭で上映された「29歳問題」や「中英街一号」「空手道」、さらに昨年の東京国際映画祭で上映された「トレイシー」もその1つである。
このような事例はもちろん香港にだけ起きているのではない。ひとたび新しい小さな流れが生まれれば、それに続く新たな流れが重なり合って新潮流という大きなうねりとなる。目を転じれば軍による検閲から解き放たれた戦後の日本映画は1950、60年代に黄金時代を迎える。台湾では38年続いた戒厳令が87年に解除されてわずか2年後、ホウ・シャオシェン監督が傑作「悲情城市」を発表し世界を驚かせた。ポーランドでは統一労働者党政権下の58年、故アンジェイ・ワイダ監督が検閲を逃れるため反政府主義者の死を描きつつ抵抗の意志を作品に込めたと言われる「灰とダイヤモンド」を発表している。
検閲があればそれをかい潜る手法を編み出し、体制が変わればため込んだ抵抗のマグマを噴き出すように映画人は映画を作り続けてきたのだろう。そして作り手の熱意は必ず受け手の観客に伝わるという事実も各国映画人が長い歩みの中で得た大事な教訓と言えるだろう。
作品についてもう一言。父親やアパートの隣人たちをハラハラさせながら、ショーン・ユー演じるトンが「大丈夫だよ」と逆に父親をいたわるラストが秀逸でいい。
「誰がための日々」は2月2日より新宿K’s cinemaほか全国順次公開
【紀平重成】