第721回「工作 黒金星と呼ばれた男」
「これはフィクションですよ」と作り手が公言しているのに、「こんなこと本当にあったかもね」と観客に思わせてしまう作品が各国で相次ぎヒットしている。邦画でいえば政権の闇に苦悩するエリート官僚と、真実に迫ろうともがき続ける記者を描いた「新聞記者」であり、お隣の韓国であれば、今回の「工作 黒金星と呼ばれた男」を挙げることができる。
本作はタイトルにも「工作」とあるようにスパイ映画のジャンルに入る。南北分断が70年余も続いているということ自体がそれぞれの国民に多大な犠牲を強いていると言えるが、見方を変えれば韓国の映画界は皮肉なことにスパイ映画という「金脈」を掘り当てたことになる。事実、「シュリ」「ベルリンファイル」「レッド・ファミリー」等の名作、傑作を次々と世に送り出し、海外にまで輸出して外貨を稼ぐことができたからである。
スパイ映画はドラマの展開が派手だったり、スリル満点で娯楽作品としても存分に楽しめるが、それに加えて本作は韓国社会を揺るがした社会的事件を彷彿とさせるリアルな描写がもう一つの売りになっている。その意味ではむしろ「タクシー運転手 約束は海を越えて」や「1987、ある闘いの真実」等のリアルで政治的メッセージが濃い社会派ドラマの系譜に連なる作品と言えるだろう。
舞台は北朝鮮の核開発をめぐり緊迫する1990年代の朝鮮半島。軍人だったパク・ソギョン(ファン・ジョンミン)は核開発の実態を探るため、92年、「黒金星(ブラック・ヴィーナス)」というコードネームの工作員として、北朝鮮に潜入することを命じられる。
まず事業家に成りすましたパクは、北京に駐在する対外経済委員会のリ・ミョンウン(イ・ソンミン)所長の信頼を得ることに成功する。彼は北朝鮮の外貨獲得の責任者で、最高権力者である金正日と単独で会えるという大物だった。パクは尾行や盗聴、さらに自白剤を打たれての尋問もパスし、ようやく金正日と接見するチャンスをつかむ。そこでパクは核の実態調査を広告の撮影に見せかけた事業を提案し認められる。
しかし事態は急変。97年、4度目の大統領選出馬となった金大中候補が世論調査で支持率1位を獲得したため、投票結果を恐れる祖国と北朝鮮が裏取引を画策。それが実施されれば自分が命を懸けた工作活動は無になることを知ってパクは落胆し、リ所長にある危険なゲームを持ち掛ける。それは彼が祖国を裏切ることになるのか、祖国が彼を抹殺するのか、あるいは北朝鮮が彼の正体を見抜くのか……。
実在の政治家の名前が出てきて史実のような政治状況が展開する。現実に起きた事件が盛り込まれていくので、現代史の舞台裏をのぞいているような気持になってしまうのだ。これが本当なら怖い話である。しかし映画の中で北の最高権力者が「南は選挙のたびに北側に介入を求めてくる」と吐き捨てるシーンを見ると、すべてフィクションとも思えないリアルさを感じてしまう。「南と北の裏の裏の裏」という作品の宣伝コピーが大げさでなく胸に突き刺さるのである。
果たしてユン・ジョンビン監督らの作り方がうまいのか、それとも歴史は小説よりも面白いのか。東西の冷戦が終わったとき、スパイ小説や映画はもうリアルさを失い消えていくと言われたが、作り手の想像力はどこまでも深く、しかも柔軟性があり、一方で「事実は小説より奇なり」もまた真実なのかもしれない。
スパイものといえば「007」シリーズのジェームズ・ボンドは不死身だが、実際には命を落とすスパイが多い危険な仕事だった。コード名「黒金星」と呼ばれた男には実在のモデルがいると言われるので、数々の暗殺の危機を乗り越え命を長らえたということになる。映画では厳しい人生を歩んだ者にふさわしい労をねぎらう形となっていて安堵した。
さて時を同じくして日韓双方で実在の事件をもとにした社会派ドラマが生まれた。現代史に迫るという作り手の思いと手法には共通する部分が多い。だが頻繁に政権交代が行われる韓国と戦後の大半を一つの保守政権が担い続ける日本を比較すると、どちらが健全といえるだろうか。韓国は光州事件など大きな犠牲を払いつつも独裁政権に代わって民主主義による政治体制を実現した。一方の日本はいち早く民主主義体制を手に入れたものの、長期政権のほころびが出たのか風通しの良い社会とは言い難い。今回の参院選でも安倍首相が演説中にヤジを飛ばしただけの有権者を北海道警が排除するという対応は表現の自由を損ねる「過剰警備」としか思えない。
ジャンルは異なるが、さまざまなことを考えさせてくれるこの2作品をご覧になることをお勧めする。
「工作 黒金星と呼ばれた男」は7月19日よりシネマート新宿ほかにて全国順次公開