第722回「あなたの名前を呼べたなら」
今年に入って本欄で紹介したインド映画は「バジュランギおじさんと、小さな迷子」 「パドマーワト 女神の誕生」「SANJU/サンジュ」の3本。そのいずれもが映画大国にふさわしい傑作ぞろいだが、今回ご紹介する作品は一味違う。とりわけラストで光彩を放つ一言は見るものに深い感銘を与えるだろう。
この作品、タイトルも思わせぶりだし、そもそもインド映画のお約束ごとである踊りの場面がほんのわずかしかない。しかも描かれるのは農村出身のメイドがムンバイの裕福な御曹司の邸宅で身の回りの世話をするうちに階級差を越え愛をはぐくむというストーリー。つまりは禁じられた愛の物語である。インド社会の事情に詳しい人なら「奇跡」または「ファンタジー」のような話ということになる。ロヘナ・ゲラ監督の家族やスタッフですら「絶対に起こりえない物語」とまで断言する作品に監督はなぜこだわったのだろうか。
まずはストーリーの紹介を。インド最大の都市ムンバイ。農村出身のラトナの夢はファッションデザイナーだ。新婚4カ月で夫を亡くした彼女は建設会社の御曹司アシュヴィンの高級マンションに住み込みのメイドとして働いている。高原の実家に里帰りしていた彼女は突然雇い主のアシュヴィンに呼び戻される。このマンションで彼は新婚生活を送るはずだったが、結婚の直前、婚約者の浮気が発覚し破談に。こうなると高級マンションの広すぎる間取りは逆にマイナスに。傷心のアシュヴィンを気遣いながら、ラトナは身の回りの世話を再開する。ある日、彼女がアシュヴィンに彼の留守中に裁縫教室に通ってもいいかと相談をし、それを彼がすんなりと承諾したことから、ふたりの距離が縮まっていく。
結婚に失敗したという心の傷を共に持つ二人だが、親から託された事業のためライターとして生きていく夢を諦めようとしていたアシュヴィンは一方で夢をかなえよう生き生きとして働くラトナの姿がまぶしく見えるのだった。
ロヘナ・ゲラ監督はインドで育った後アメリカのカリフォルニアやニューヨーク、パリで生活したことがあり、インドと欧米の二つの文化的視点を持っている。その経験を活かして助監督や脚本家として活躍し、今作が長編デビュー作だ。
監督自身、小さいころから身の回りの世話をしてくれるメイドと暮らした体験を持ち、階級社会には言葉にできないながらも違和感を感じていた。帰国後も以前と変わらない母国の状況に悩んだ彼女はいつしか身分による差別が色濃く残るインド社会を変革したいとの思いを抱いた。自分が学び得意とするのは映画。そこで恋愛物語を通してインドの階級問題を探求できないか考えたという。
映画化にあたって心掛けたのは作品がどれだけリアリティをもって観客に受け入れられるかを常に意識することだった。「こうするべきだ」と自身の考えを強制するわけにはいかないので、説教臭い表現は厳禁。ラトナを被害者としても描きたくなかったという。
参考にしたのは意外にもウォン・カーウァイ監督の「花様年華」。お互いに好意以上のものを持ちながら、近づきたいのに一定の距離は保とうと自制する力も働く。それを見事に体現するのが「花様年華」で繰り返し描かれるトニー・レオンとマギー・チャン演じる男女が狭い階段で体をそらせながら交差する場面だ。
本作でも廊下ですれ違う二人が「花様年華」の二人と共通する思いを抱きながら動く様は美しいと監督は絶賛する。
とはいえ監督はインドで根強い一般的な考え方も映画の中に取り込む。アシュヴィンの友人がこうアドバイスする。「やめておけ」「お前も彼女も一生苦しむことになる。メイド上りと呼ばれて」「メイドを思う気持があるのならな」
二人の関係はどこまで進むのか、また周囲の理解は得られるのか。監督はラストである美しい場面を用意し二人の行方を示唆する。エンドロールで流れる歌は「失うものは何もないから踏み出そう、生きてみよう」と呼びかける。それを聞いて判断するのは見る人次第。「文化の違い」と言うインド人もいるだろう。監督は変わりつつあるインド社会の姿を温かく見守ろうという立場だ。
主人公・ラトナ役を「モンスーン・ウェディング」のティロタマ・ショーム、御曹司のアシュヴィン役を「裁き」のビベーク・ゴーンバルがそれぞれ熱演している。
「あなたの名前を呼べたなら」は8月2日よりBunkamuraル・シネマ ほかにて全国順次公開
【紀平重成】