第726回「帰れない二人」

ジャ・ジャンクー監督と本コラムとは浅からぬ縁がある。というのは第1回目(2003年2月28日)に当時日本公開中の「青の稲妻」を取り上げたことや、その後も監督の長編作品は「世界」以降「山河ノスタルジア」まで6本すべてをいち早く紹介しているからだ。
筆者はコラム第一作で「(監督は)一貫して地方都市の若者をドキュメンタリー風に描いている。そこには英雄もいなければ悲劇のヒロインも登場しない」と監督独自のスタイルを評価した。その後、描く対象が若者だけでなく他の年齢層にまで広がっていても、社会の底辺で暮らす人々の情念にこだわるという彼の表現方法はまったく揺るぎがないし、そのこだわりはむしろ前作の「山河ノスタルジア」よりも鮮明になっていると思う。

舞台は石炭産業が傾き、政府が「西部大開発」プロジェクトを推し進めていた2001年の山西省大同。ヤクザ者のビンと付き合っていたチャオは、街中でチンピラに襲われたビンを助けるためビンから預かった銃を発砲する。5年後、刑期を終えたチャオは、連絡の取れないビンを捜しに長江のほとりにある古都・奉節を訪ねるが、彼には新しい恋人がいた。心に大きな空洞を抱えたチャオは行き連れの男に誘われ新疆の内陸都市・ウルムチに向かい、やがて2017年を迎える。
17年間に総移動距離7700キロメートル。西部劇をはるかに超えるようなスケールの大きさと過ぎ去った年月。ジャ・ジャンクー監督は今作にかける意気込みを「私が歩んできた48年間の人生を使って、歴史的にも激動の変化を経験した現代中国を舞台にラブストーリーを描きたい」とプレスで語っているが、その思いに呼応するかのようにチャオ・タオは人を真剣に愛し、裏切りに耐え、また受け入れるという情念の女を美しく力強く演じている。ジャ・ジャンクー監督作品のミューズであるチャオ・タオのベスト作品と言っていいだろう。

ジャ・ジャンクー監督は激変する中国の中で変わらないもの、変わってほしくないものとして「義理と人情」を描き続けている。とりわけ今作ではその思いがより強く反映されているようだ。
映画の冒頭、借金を踏み倒そうとする者が登場する。麻雀クラブに出入りするジャアだ。それを見とがめてビンは関羽像を男の前に運びよせ「像の前で本当のことを言え」と諭す。関羽は「三国志演義」にも登場する忠義の人であり、商売の神様としても庶民に人気がある。ジャアはすんなり借金を認めるが、後年勢力を失ったビンに仕返しをするためトランプゲームを仕掛ける。ビンが負ければ自分の股をくぐらそうというもので、前漢初期の故事である「韓信の股くぐり」として有名。大きな志のある人は目前の小さなことは我慢して争わないというたとえで、ジャアの企みは本来の意味を悪用し忠義の道理にも反するものだ。
中国では関羽や韓信など中国人の精神的バックボーンとなる高潔な人の教えが人々の事を決断する際に、日本でいえば水戸黄門の印籠のように威力を発揮する。政治も社会も大きく変動したにも関わらず2000年たっても変わらない中国人の情念が立ち現われるのだ。宗教と同じように信じられるもの、そして変わってほしくないものとして監督は義理と人情を描いているように見える。

個人的に興味を抱いたのは武漢で乗り換えウルムチに向かう列車に乗る予定というおしゃべりな男とチャオが相席になったこと。「ウルムチは遠い。飛行機で行かないのか?」と問われた男が「スピードばかり求めると何も味わえない」と答える。同じセリフをチャオ・タオは前作の「山河ノスタルジア」で幼い息子から受け、同様に答える。同じカットを繰り返すのはよほど気に入ったやり取りなのか、それともなりふり構わず経済成長一本やりで爆走する中国の姿に懸念を抱いているからだろうか。

また沿海省にくらべ経済発展の遅れている西部地区に政府がテコ入れする「西部大開発」の描かれ方に昨年の東京フィルメックスで話題を集めたフー・ボー監督の「象は静かに座っている」に出てくる内モンゴル自治区フルンボイル市の満州里が重なって見えたことも興味深い。将来に希望が持てない時、中国では人々が「理想の王国」を想像し、たどり着くことのできない旅を繰り返すのだろうか。少なくともチャオはラストでそんな思いを抱いたのかもしれない。
「帰れない二人」は9月6日よりBunkamura ル・シネマ、新宿武蔵野館ほか全国順次公開
【紀平重成】